ゲーテ 「詩人は人間及び市民として祖国を愛する」

 詩人であり、なおかつ政治の中枢にあったゲーテは、相反する世界にどのように折り合いをつけていたのでしょうか。ゲーテが亡くなる数日前に語った言葉です。
 「ゲーテの深い言葉」第9話を書きました。

 ゲーテにとっては「詩人」でありつづけることが本望であり、自分の存在意義でありました。

 しかし、神は、天は、歴史をつくる偉人に「法難」を与えるのでしょうか。

 詩人でありつづけたいゲーテでしたが、カール・アウグスト大公に強く望まれ、その人生はワイマール公国の政治に深く関わらざるを得ませんでした。

 それゆえ政治というものが持つ偏狭性に、自身翻弄された苦い思いがあるのでしょう。

 詩人ゲーテはこのような言葉をエッカーマンに語るのでした。

岩波文庫『ゲーテとの対話』中巻p382
1832年3月はじめ

 「詩人が政治的に活動しようとすれば、ある党派に身をゆだねなければならない。そしてそうなれば、彼はもう詩人でなくなってしまう。その自由な精神と偏見のない見解には別れをつげ、そのかわりに偏狭さと盲目的な憎悪という帽子を耳まですっぽりとかぶらねばならなくなってしまうのさ。

 「詩人は、人間および市民として、その祖国を愛するだろう。しかし、詩的な力と詩的な活動の祖国というものは、善であり、高貴さであり、さらに美であって、特別の州とか特別の国とかにかぎられていはしない。どこにでも見つけしだいにそれを捉えて、描くのだ。その点では、鷲に似ているね。鷲は国々の上空を自由に眺めながら飛びまわり、捕らえようとするウサギがプロイセンを走っていようがザクセンを走っていようが、そんなことにはお構いなしだから。」

 「それにしても、いったい祖国を愛するということは、どういうことなのだろうか。そして祖国のために働くということは?
 ある詩人が一生涯、有害な偏見とたたかい、偏狭な見解を打ちやぶり、国民の知性を啓発して、その趣味をきよめ、志操と考え方を高めるために努力したとしたら、いったいそれ以上になにをしたらよいというのだろうか。そしてそれ以上に、どうやって国のために働けばよいというのだろうか?」

 「また私が生涯こんなに苦労したというのに、私のすべての作品がある種の人たちの目には一べつにも値しないらしいということも、よく知っている。私が政治的な党派に属するのをはねつけていたからだよ。そういう連中に気に入られるには、私もジャコバン・クラブの一員となって、殺戮や流血の話を説いてまわらねばならないだろう。・・・だが、もうこれ以上こんなつまらん話はやめるとしよう。ばかなことにかかわりあっていると、こっちまでばかになってしまう。」

 私にとっては、まるでこの国の今を連想させ、大いに共感するゲーテの言葉です。

 「人間として、市民として祖国を愛する」ということは「国家の一分子として」ではなく「自立した一個人として」という意味にとらえることができると思います。
 それは、ヨーロッパが近代の歴史の中で培ってきた「個人主義」というものでしょう。

 そのような精神形成にゲーテが大いに寄与したことがうかがい知れる彼の言葉でした。

 決して群れなかったゲーテはいかに孤独であったことか。。。

 「白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ(若山牧水)」の歌が頭にうかんできます。

  参考→「ゲゲゲのゲーテ」より抜粋
   →ゲーテ「趣味について」
   →ゲーテ「わが悔やまれし人生行路」
   →ゲーテ「嫌な人ともつきあう」
   →ゲーテ「相手を否定しない」
   →ゲーテの本を何ゆえ戦地に?
   →ゲーテ「私の作品は一握りの人たちのためにある」
   →ゲーテ「好機の到来を待つ」
   →ゲーテ「独創性について」
   →ゲーテ「詩人は人間及び市民として祖国を愛する」
   →ゲーテ「若きウェルテルの悩み」より抜き書き
   →ゲーテ「自由とは不思議なものだ」
   →ゲーテ「使い尽くすことのない資本をつくる」
   →「経済人」としてのゲーテ
   →ゲーテ「対象より重要なものがあるかね」
   →ゲーテ「想像力とは空想することではない」
   →ゲーテ「薪が燃えるのは燃える要素を持っているからだ」
   →ゲーテ「人は年をとるほど賢明になっていくわけではない」
   →ゲーテ「自然には人間が近づきえないものがある」
   →ゲーテ「文学作品は知性で理解し難いほどすぐれている」
   →ゲーテ「他人の言葉を自分の言葉にしてよい」
   →ゲーテ「同時代、同業の人から学ぶ必要はない」
   →ゲーテ「自分の幸福をまず築かねばならない」
   →ゲーテ「個人的自由という幸福」
   →ゲーテ「喜びがあってこそ人は学ぶ」