ノボ村長の妄想物語「法人国家となった世界」

 「経済は政治より強し」かな〜? それじゃ経済社会のやり方を真似して今よりましな政治にできないだろうか、という妄想です。

ノボ村長の妄想物語

法人国家となった世界

 2030年、一冊の本が世界に革命的な変化をもたらした。

 その本の名は『国家と経済の結婚』

 著者はアメリカ国籍を持つ著名な日本人経済学者であった。

 その本の冒頭にはこう書かれていた。

 『経済システムと一体化した政治が、ついに世界平和を実現する!』

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 正確に言えばこの本が世界を変えたわけではない。

 コンサルタントが単なる成功事例の紹介屋であるように、経済学という学問も過去起きたことの解説にしか過ぎない。

 地球上の多くの国がすでに「国家株式会社」に化していたのだ。

 共通言語は「マネー」、価値基準は「収益」、そこにある種の平等があったことも、この革命的変化の見逃せない要因であった。

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 それでは「国家株式会社」以前はなんとよべばいい社会だったのだろう。

 私はそれを「国家宗教団体」とよぶのがいいと思っている。

 「国家」は「経済」より「歴史」や「民族」とはるかに縁が深かったのだ。

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 今や総理大臣は「国家CEO」という名称に変わった。

 国会は「国家経営会議」であり、国会議員は「国家執行役員」とよばれる。

 政治も経済も同じ名称、同じ運営スタイルなのでまったくムダというものがない(ように見えた)。

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 さらに宗教戦争よりも経済戦争のほうがいくぶん(肉体的な悲惨さという点で)ましだった。

 それは経済界と同じように、血を流し合う前に「マネー」による解決、つまり国のM&A(吸収合併)という方法がとれたからだった。

 しかし会社というのが常在戦場であるがごとく、国家株式会社化も戦争を減らすことはできても根絶することはできなかった。

 戦いにまけた国家は「倒産」して、「警備会社国家」という汚い仕事(つまり人殺し)を国連管理のもとでさせられた。

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 その後数十年がたった。

 多くの国の国民が、利益優先、経済価値単一社会に息苦しさを感じ始め、ルネサンス前夜のような雰囲気が生じていた。

 そこに出現したのが「生協国家」「NPO国家」という新たな国家形態だった。

 かつて日本にあった「生協」というものを国家にしたらどうだろう?と考えた希有な政治家がいたのだ。

 同じ頃、かつて世界中にあった「NPO」というものを国家にしたらどうだろう?と考えた学生もいた。

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 「生協国家」とはどういうものか?

 国民は税金を払うのではなく「出資金」を拠出して「生協国家」をつくる。

 かつての国会議員は「組合理事」とよばれ、総理大臣は「理事長」である。

 すべてが国民のために国民が決めていく形態なので満足度が低いわけがない。

 最初は国防やら、国際間競争やらどうするつもりだと反対も多かったが、思いのほか難なく移行が進んだ。

 それは、かつて生協に加入しその良さを体感していた世代がまだ存命だったこと、

 それに国防はといえば、今や昔の国連が、破綻国家救済事業として「警備会社国家」の元締めとなっていたため、どの国も国連に国家警備を依頼していた。

 すでに国家株式会社時代を経ていたので、ドンパチの前にマネーで損得を計算することも一般的になり、国防がそう物騒なことでもなくなっていたのだ。

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 「生協国家」の国際競争はというと、「戦わずして勝つ」のごとくであった。

 というのは、株式会社の「マネー第一主義」から「ハピネス第一主義」となったためだ。

 株価に一喜一憂して「利益を上げ続けなければ!」という脅迫から政治家も国民も逃れることができ、そのため逆に国際評価が高まったせいだ。

 政治という制度ができて以来初めて、国民は一人一人が「自分が主役だ」という意識をあまねく持つに至った。

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 「NPO国家」というのもおもしろい国家コンセプトであった。

 医療、災害救助、自然復興、文化啓蒙など特定目的を持ち、それを収益として継続する国家なのだった。

 特定の国土に依存しない「ジプシー国家」といっていいだろう。

 その点で考えると「華僑」とか「ユダヤ人」とかメイド国家の「フィリピン」とかと似た要素があった。

 各国の旧軍人や医療関係者などが有志参加し全世界にまたがる国家となっており、さらに世界中から感謝されている。

 国旗は「サンダーバード」を模してつくられていた。

 かつての「国境なき医師団」や3.11で活躍した「ボランティア団体」の子孫といえる国家かもしれない。

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 さて、国家株式会社、生協国家、NPO国家と多様な形態の国家が並び立つ世界の中では人々は自由に国家を選ぶことができた。

 それはかつて「会社」も「生協」も「NPO」も個人が勝手に入ったりやめたり出来るのと同じことだった。

 流動性が高くなったことは、よりよい形態への自然淘汰を促進した。

 何よりも人々がその世界を良しとした理由は「理屈」ではなく、生き物、人間としての「本能」だった。

 様々な形態の社会が共存する世界は、自然界の多様な営みととても似ていたからだった。

 私たちの母胎である「自然」の摂理に近い社会体制は、多くの人たちに「安心」「安全」の感覚を本能的に抱かせたからだ。

 「戦争」という袋小路に入りやすい構造を持った「政治」世界の価値観や論理にあまりはまりすぎずに、

 政治以外の分野で芽生えつつあるより良き「しくみ」やその「コンセプト」を育てていきたいものです。

 それがいつか政治のしくみとして応用される日が来るまで。

<ノボ・アーカイブスより>