心蹴られし「ライ麦畑」の一節に

 若い頃途中下車してしまった名作を読み返しています。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読み終わりました。不可解なこの書名の由来でもある後半の一節に出会った時、心を思い切り蹴られました。主人公と同じ高校生であった過去の私に。

 東部のとある全寮制の名門高校から脱走した17歳の主人公ホールデン。

 ニューヨークの実家へ戻るまでの数日間に経験したドロップアウトのあれこれ。

 暴力、酒、女、偽善、親愛・・・
 
 自分の思いや感情を、現在進行形でストレートな独白調で綿々と書きつらねてあります。

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 一人称の延々と続く文章に、途中で読むのをやめたくなってきました。

 しかし後半、泥酔し真夜中実家にひそかに戻り、妹の部屋で思いを語る場面、その一節に心を思い切り蹴られた思いがしました。

 ホールデンはあの頃の自分だったんだ、とハッとして。

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 10歳の妹フィービーは、兄に何になりたいのかをたずねます。

 「悪い言葉はよしてよ。じゃいいから、何か他のものを言って。兄さんのなりたいものを言って。たとえば科学者とか。あるいは弁護士とかなんとか」

 「科学者にはなれそうもないな。科学はぜんぜんだめなんだ」

 「じゃあ、弁護士は? ーーパパやなんかのような」

 「弁護士なら大丈夫だろう ーーでも僕には魅力がないな」と僕は言った。

 ホールデンは理由をかたります。

 「つまりね、始終、無実の人の命を救ったり、そんなことをしてるなら、弁護士でもかまわないよ。

 ところが弁護士になると、そういうことはやらないんだな。何をやるかというと、お金をもうけたり、ゴルフをしたり、ブリッジをやったり、車を買ったり、マーティニを飲んだり、えらそうなふうをしたり、そんなことをするだけなんだ。

 それにだよ。かりに人の命を救ったりなんかすることを実際にやったとしてもだ、それが果たして、人の命を本当に救いたくてやったのか、それとも、本当の望みはすばらしい弁護士になることであって、裁判が終わったときに、法廷でみんなから背中をたたかれたり、おめでとうを言われたり、新聞記者やみんなからさ、いやらしい映画にあるだろう、あれが本当は望みだったのか、それがわからないからなあ。

 自分がインチキでないとどうしてわかる? そこが困るんだけど、おそらくわからないぜ」

 ホールデンは妹に彼がなりたいものを語ります。
 
 そして、それがこの書の名前になったのです。

 私にとって、この一節くらい爽やかで、ある意味ショッキングな文章はありません。

 「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。

 何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。

 で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ

 ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。

 ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。

 馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」

 忘れていたもの、捨てたかもしれないものを思い出させられました。

 もしかしてもう取り返せないものかもしれません。

 しかし古いアルバムを開くように、その頃の自分を時々思い出してみたいものだと思いました。