若きメルケルの悩み

 ドイツのメルケル首相の父はルター派教会の牧師だったそうです。彼女の政策にはとても芯が強いあるものを感じます。その底流にルター派プロテスタントの歴史、その光と影があることを知りました。欧米におけるプロテスタンティズムとその社会的影響について自分なりに調べてみましたが、欧米の政治や社会の基層は宗教(キリスト教)であると強く感じさせられました。

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(トランプにびっくり!)

 メルケルとルターの話を書こうとする前に、私なりの長い読書道中がありました。

 きっかけは、アメリカのトランプ大統領誕生でした。

 なんでかな〜とあれこれ調べるうち、『反知性主義』(森本あんり著)という本と出会いました。

 それは衝撃的でした。

 アメリカ国民の政治意識の基層にはピューリタニズムによる(積極的)「反知性主義」があるということを知ったからです。

 さらに興味はつのり、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を再読したり、『キリスト教の歴史』小田垣雅也(講談社学術文庫)、『ユダヤ教の誕生』荒井章三(講談社学術文庫)などを読んでみました。

 アメリカの素性と政治、世界を席巻する資本主義の基層にはカルヴァン派由来のピューリタニズムが存在することを深く知ることになり、世界情勢の変化について今までとは違った観点が私に生じました。

 そして最近『プロテスタンティズム』深井智朗著(中公新書)という良書とめぐりあい、ルター派がドイツの基層にどう関係しているかについて理解が深まりました。

 これらについて自分の備忘録としてまとめておこうと思いました。

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(プロテスタントの二大ルーツ)

 まずプロテスタントについてザックリとした話をします。

 プロテスタンティズムは 大きく分ければ、ルター派とカルヴァン派の二つが二大ルーツと言えるでしょう。

 二つのルーツは、教会主義の「カトリック」に対して聖書主義の「プロテスタント」という対抗勢力として同一グループと考えられます。

 しかしプロテスタンティズムはその反権威主義という革新性を内包するがゆえに多様化し、ひとくくりにはできません。

 革新性(反権威主義)が強烈なのがカルヴァン派であり、英国において枝分かれしていったのがピューリタンです。

 さらにピューリタンの末裔ともいえるメソジストやバブテスト、クエーカーなどがアメリカで勢力を伸ばし、この国の宗教と政治の基層となりました。

 ルター派はドイツに広まりましたが、保守性が強く既成の政治権力と結びつきました。

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(宗教国家アメリカ)

 アメリカという国は、1620年、メイフラワー号でやって来た英国国教会に迫害されたピューリタン(清教徒)である「ピルグリムファザーズ」によって建国の礎が築かれました。

 彼らにとってアメリカとは、誰にも邪魔されずにピューリタニズムを実現できる「神に祝福された国」であったわけです。

 それゆえ彼らが最初にしたことは、民衆に教えをしっかりと伝えられるよう、牧師を育てる学校を建てることだったのです。

 その学校というのがハーバード、イエール、プリンストン各大学でした。

 ですから、アメリカの「自由」とは「個々人の信仰の自由」のことであり、それを迫害することを国家に決して許さないということに本意があります。

 その考え方は反権威主義として政治に反映し、既存エスタブリッシュメントに対する抗議として、ある意味宗教改革と似たことが起こりがちとなりました。

 その典型例が第七代大統領のジャクソンの当選であり、彼はトランプを十倍も極端化したような政治家であったようです。

 トランプが選ばれた遠因にはアメリカ独自のピューリタニズムが深く影響しているようです。

 (ちなみにトランプの宗派は、ピューリタンにおけるエリート階級?であるらしい「ブレスビテリアン(長老派)」だそうです)

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(厳格なカルヴァン、真面目なルター)

 プロテスタントの二大ルーツをたとえてみるとこうなります。

 二重予定説という純粋究極理論に立つカルヴァン派はスピリッツ系(蒸留酒)です。

 これに対し、個人の内面的な宗教体験を重んじるルター派はワイン系(醸造酒)です。

 カルヴァン派が過激な革新派でルター派が穏健な保守派という分け方もできるでしょう。

 ルター派はプロテスタントではありますが、どこかカトリックの修道会と似た雰囲気のある宗派だったようです。

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(資本主義はピューリタニズムが生んだ巨竜)

 ピューリタニズムが資本主義の精神を育んだというのはマックス・ヴェーバーの有名な分析です。

 「時は金なり」のフランクリンに代表されるその思考・行動様式は「勤勉」「蓄財」「投資」「寄付」「利益信仰(救済予定の確信)」という要素で成り立っています。

 カルヴィニズムがその信仰の基幹としている予定説とは「最後の審判における救済は特定の者だけにのみ行われ、それを知ることも変えることもできない」というものです。

 牧師すら救えないというこの予定説の絶望から生まれた信者の信念とは次のようなものでした。

 「神がキリスト者に欲し給うのは彼らの社会的仕事である。個々人も仕事も神の栄光を増すために存在する。この活動によって自分が救われる者であることを確信するのだ」

 ここから「生活全体の徹底した禁欲」+「社会的活動の成功」=「救済の確信」という関係式が生まれ「事業経営」と強い親近性を持つに至ったのです。

 カルヴィニズムにおける「隣人愛」も、実は愛情などとは関係なく、神の栄光のために生きることを教え伝える行為にすぎないということのようです。

 やがて「勤勉」→「金をムダにするな」→「利殖こそ徳」に変わり、資本主義やマネー経済が巨竜に姿を変えて今に至ります。(「寄付」も金の有効的活用という意味で利殖と同じ価値観に基づきます)

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(アメリカ独特のピューリタニズム)

 さて、カルヴァン主義を基に英国で生まれたピューリタニズムですが、さまざまな宗派の枝分かれが生じ、それらはアメリカの新天地で花開きました。

 それが(広義のピューリタン)であるメソジスト、バブテスト、クエーカー、モルモンなどの各宗派でアメリカの政治を動かす大きな勢力となっています。

 彼らの特徴は大きく三つあります。

 まず「予定説の否定」です。

 「誰でも回心して真面目に生きれば救われる」という考えです。

 次に「信団(セクト)」と呼ばれる特殊な共同態です。

 「信団(セクト)」は、神の救済を確信した「再生者」たちだけの集合体です。

 三つ目は独自の伝道形式です。

 それは「リバイバル(信仰復興)」とよばれ宗教的熱狂を伴う伝道です。

 これらの信団も含め、広義のピューリタニズムがアメリカの政治や社会にどのような影響を与えたかというのは次のようになります。

 個々人の孤独と絶望→内面的孤立化→個人主義
 
 迫害者への反感→教会や国家への反感→反権威主義→政教分離→民主主義

 宗教的熱狂→扇動的伝道→メディアの活用→ショービジネス化→自己啓発産業
 
 これらに近代以降その宗教性がはげおち、金だけが燃料となった資本主義スーパーエンジンを加えれば、なるほど「アメリカそのもの」です。

 ちなみに各宗派の社会階層を表す皮肉たっぷりの比喩があります。

 「「幼いノーマンが「メソジストって何?」と尋ねると、父は「読み書きのできるバブテストさ」と答えるのである。・・・ 他にもメソジストは「靴をはいたバブテスト」のような言い方が流行るようになる。長老派は「大学に進学したメソジスト」、アングリカン派は「投資の収益で暮らす長老派」などという序列で語られた」『反知性主義』森本あんり著より

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(ルター派の光と影)

 プロテスタントのもう一つルーツであるルター派というのは、相反する二面性を持った宗派でありました。

 ひとつは排他的な「ナショナリズムとの親和性」、もうひとつは「多様性の肯定」という共存主義です。

 ナショナリズムの傾向は時の政治権力に常に迎合し、そして20世紀になるとナチズムと結びつきました

 これらはドイツが近代以来持ち続けた「遅れて来た国」というコンプレックスも大きく絡んでいるようです。

 神聖ローマ帝国以来領邦制国家という小国分立状態が続いていたドイツは、ドイツ民族の統一とそのアイデンティティーを常に求め続けていました。

 そこにルターの宗教改革が、先進国であった英仏に対抗するドイツ独自の理念としてクローズアップされていったようです。

 ドイツのコンプレックスはロマン主義(あこがれ主義)や思弁的哲学への傾倒をもたらし、コンプレックスの裏返しとしてアーリア人至上主義やナチズムが生じていったと分析する学者(H・プレスナー)もいます。
 
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(メルケルが象徴するルター派の多様性)

 次にメルケルについて書こうと思います。

 メルケルの父親はルター派の牧師であったそうです。

 メルケルの政治行動はルター派のもうひとつの要素「多様性の肯定」を象徴しているようです。

 「2016年にドイツ社会が移民排斥にゆれ動き、並行して極右勢力の排他的で不寛容な政策が力を持つかに思えた時に、ルター派の牧師の娘として生まれた、キリスト教民主同盟のアンゲラ・メルケルドイツ連邦共和国第八代首相が、その動きを強く否定したのは、このことと深く関係している」

 「プロテスタンティズムが自らの宗教的伝統を、他宗教に対する自らの正当性、独自性のみを強く意識し、主張するのであれば、その「否」は自らの立場の代弁であり、排他性のシンボルとなる。

 しかし戦後のプロテスタンティズムは、政府が示す世界との連携、多元化の容認などの動向に協調するようになった。

 プロテスタントであることの意味を、他者を排除するような宗派性に見るのではなく、宗派同士の終わりのない政治的戦いの中で養ってきた、異なった宗派の共存のシステムを築こうとする努力に見出そうとしているのだ。」『プロテスタンティズム』深井智朗著(中公新書)より
 ここにルター派がナショナリズムとは対極にあるリベラリズムの源流でもあることを理解することができます。

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(プロテスタンティズムとは何であるのか)

 「ルターの出来事からはじまった、価値の多元化、異なった宗派の並存状態、それゆえに起こる対立や紛争の中で、プロテスタンティズムは次の問題を考えざるを得なくなったのである。

 どのようにすれば、異なった宗派や分裂してしまった宗教が争うことなく共存できるのかという問題と取り組んできたこと、これこそがプロテスタンティズムの歴史であり、現代社会における貢献なのではないだろうか。
 もちろん宗派争い、信条や思想の対立においてプロテスタンティズムが優等生であり、完全な問題解決の道を見出したというわけではない。

 むしろ事情は逆で、プロテスタンティズムはとても醜く、悲惨な宗派争いをその歴史の中に持っており、それゆえに平和共存の可能性を誰よりも希求した宗派なのである。

 その努力に終わりはないが、これまでの歴史は多様な信仰や価値観が存在する現代の社会システムに何らかの示唆を与えられるのではないだろうか。

 パウル・ティリヒによれば、ルターとそこから生まれたプロテスタンティズムの戦いは歴史的に見れば一つの宗派の誕生であるが、それが生み出したプロテスタント原理というのは、自らの宗派にも担いきれないような大きな原理であり、自己批判と自己相対化の原理なのである。

 それはプロテスタンティズムが歴史から学んだ現実でもあった。真理を主張する自らのとなりには、また別の真理を主張する他者が存在するのである。
 
 何度もぶつかり合った後で、どうしたらこの他者との共存が可能になるのかという努力を重ねてきたのである。

 プロテスタンティズム自体がこの努力の歴史を裏切ってはならないはずである」『プロテスタンティズム』深井智朗著(中公新書)より
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 タイトルの「若きメルケルの悩み」はゲーテの「若きウェルテルの悩み」に単純にひっかけたもので、深い意味はありません。

 しかし、ゲーテの次の文章はメルケルとどこかしら通い合うものがある気がします。(そういえば二人ともライプツィヒ大学で学んでいますね)

  →ゲーテ「個人的自由という幸福」

 (限られた本を読んで知ったことを自分の備忘録として書いた文章ですので独断や間違いがあるかもしれません。ご容赦ください。)