日野原重明先生を追悼し過去ブログを再掲します。2014年5月に出版された『十代のきみたちへ』からの抜粋です。偽善、日和見(さすがに露悪にはなれませんが)の私にもかすかに残っているらしい「真心」に沁みいる文章です。
(以下2014年5月13日に書いたブログの再掲です)
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『十代のきみたちへ』は今月3日(憲法記念日)に出版されたばかりの本です。
日本国憲法の価値についてこれほど(頭ではなく)心に沁みる本はないと感じました。
ひとりの医師として、ひとりのキリスト教者として、ひとりの人間として「いのちの価値」をもとに「憲法」を語っています。
このような観点こそ実は大事なのではと感じさせられます。
本の中から引用いたします。
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いのちを守る憲法
なぜ医師なのに憲法に興味を持ったのか。
それは「いのちを守る」という医師の仕事に、日本の憲法が深い関係を持っていると思ったからです。
・・・わたしが注目しているのは、憲法の中身であり、こころです。調べれば調べるほど、勉強すればするほど、私は日本の憲法がすばらしいものであることを知りました。
いのちを守るということについて、これほどしっかりとつくられた憲法は世の中のどこにもないのではないか。
そう思うようになりました。
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さまざまな不満
「日本人が憲法に無関心なのは、自分たちが考えて憲法をつくったことがないからだ」という人がいます。
もしかすると、そういうこともあるかもしれません。
でも、人からもらったものだからだいじにしないというのは、なさけないことではありませんか。
自分でつくつたものはだいじにして、人からもらったものはそまつにするというのは、とてもこころのせまい考え方です。
人間という生きものは、助け合ってくらしていくことで栄えてきました。
一人ひとりの人間はとても弱く、ライオンやトラと戦っても負けてしまいます。
しかし道具を手にして、助け合って集団で生きることをおぼえたために、世界中に七十億人もの人間が生きることができたのです。
もしもきみが、「自分でつくつたものしかだいじにしない」というのであれば、親が建てた家に住むことも、みんなでつくった学校で勉強することもできなくなります。
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いのちの泉のようなもの
わたしは、日本国憲法について、「いのちの泉のようなもの」という感じを持っています。
その泉は、深い山の中で静かに清水を湧き出しているもののようで、出てくる水はとてもきれいで澄んでいます。
泉のそばには立て札などはありませんが、その泉はだれが見ても汚してはいけない大切なものだとわかります。
なぜなら、その水はいのちだからです。
次々と生まれてくるいのち。それを静かに守る泉。
わたしは人間のいのちと日本の憲法の関係をそんなふうにとらえています。
人間は子どもからおとなになるにつれて、だんだん頭が固くなり、ものの見方が固定的になっていきます。
だから、おとなの人にこの話をすると、「憲法が泉?童話じゃあるまいし」と思うかもしれません。
でも、この世でいちばん大切なのはいのちで、それをだいじに守るものが憲法だとすると、このたとえはわかりやすくないですか?
人間にとって最も大切なものは、お金や財産、地位や名誉ではありません。きみたちがこの世に生まれたときに与えられたいのちです。
いのちは自動的にあるものではなく、「与えられた」ものです。
与えられたものであるから、きみたちはいのちを大切に成長させていかなければなりません。
そのことを勉強していくと、このような大切ないのちは、どんなふうに守らなくてはならないか、どのように育てていかなくてはならないかがわかってきます。
同時に、いのちには値段がつけられないのだということもわかりましょう。
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まわりの国とのいろいろな問題
ところで、「憲法を変えたい」といっている声のなかに、近くの外国との関係をあげているものがあります。
日本の領土を不当にうばった国や、うばおうとしている国があるのに、いまの憲法ではそれに対抗できないという理由からです。
ちがう憲法を持った国とつき合うということは、なかなかにむずかしいものです。
なにしろ基本的なものがちがうのですから。
しかし、これは人と人とのつき合いに似ています。
そこで大切なのは、意見が対立してケンカになりそうになっても、ふり上げたこぶしを下ろさないで引っこめる勇気です。
これがあれば、幅広く人とつき合っていけるでしょう。
本当なら国と国とのつき合いも、その延長でできるはずですが、いまのふんいきでは「ばかにされるから」とか、「やりたいようにやられてしまうから」といって、仕返しができるように憲法を変えたいと考えている人がふえてきました。
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ソムリエの妻
・・・同時多発テロで建物が崩壊した国際貿易センターの最上階にはレストランがあり、そこではドイツからきたソムリエが働いていました。
アメリカの新聞記者がインタビューをしました。
「ご主人が殺されて、犯人をにくいと思いますか」
その人には若い奥さんがいて、それに対して、若い奥さんはこう答えました。「死んだ夫は、復讐や仕返しを必ず拒否するでしょう。その人の死のために、ほかの人の血を流してはいけません。夫は話し合いが暴力より実りの多いものと信じていました」
この話は、加藤周一さんが「ソムリエの妻」という題で紹介しています。
加藤さんはこの話にこんな意見をつけ加えています。
「ソムリエの若い奥さんが、犯人をにくいと思うのは当然でしょう。しかし彼女のこころは、そのにくしみの気持ちをこえて、暴力よりも話し合いを選びました。そこには、気高い精神があります。自爆するテロリストたちの見せかけの勇気よりももっとりっぱな、真の勇気があります。仕返しを求めてアメリカの国旗をふる人々と、それをあおりたてる指導者に対して、死んだ夫の信念を貫こうとする若い奥さんの美しい魂があります」
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永久につづくあだ討ち
いのちを守るためには、なによりも世の中が平和でなければなりません。
平和を実現するためには、戦争をしないのはもちろんのことですが、「ゆるし」の気持ちを持つことがとても重要になります。
だれでも失敗をしたり、いろいろとまちがった行動をしてしまうことがありますが、それで被害を受けた人が仕返しをすると、世の中は平和にはなりません。
仕返しが仕返しを呼んで、争いがどんどん大きくなっていくからです。
江戸時代には「あだ討ち」という制度がありました。
自分の親や兄弟、家族を殺された人が届け出をして、殺した相手を探し出し、仕返しをするというものです。
親しい人を殺された人たちの側から見れば、やりきれない気持ちを収めるための方法なのでしょうが、相手のほうから見れば「殺された」ということになり、新たなあだ討ちの理由ができてしまいます。
どこかでだれかが「ゆるす」と決めないと、永久にあだ討ちがつづいてしまいます。
わたしがきみたちに持ってほしいのは、くやしい、つらい、にくいと思っても、仕返しをしないでゆるすという大きなこころです。
みんながそれを持つようになると、世の中全体で本当にいのちを大切にすることができるようになります。
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「ゆるし」のこころ
いじめの問題を考えるときでも、この「ゆるし」のこころはとても大切です。
わたしは、いまから十年以上前から、いじめのあった多くの小学校を訪れ、四年生から六年生に「いのちの授業」という名の授業を行っています。
そこでは、たがいにゆるし合うことにより、いじめがなくなるところが多いのです。
仕返しをしない「ゆるし」があるところにだけ、平和は訪れます。「ゆるし」の気持ちを持たないで、ただ口だけで「平和、平和」と唱えていても、平和は実現しません。
いくら平和を守る憲法があっても、人々が「ゆるし」の精神を持っていないと、平和な世の中は訪れないのです。
「ゆるし」を実行するには、理性の力が必要です。
人は感情にだけ流されていると、しだいに動物のような弱肉強食の生き方になつていきます。
感情はとても大切なものですが、人はそれだけで生きてはいけません。
ときには理性の力を借りて、感情にストップをかけることも必要です。
「くやしい」「がまんできない」と、暴力をふるいたくなったときこそ、理性の力で「ゆるし」を選んでほしいのです。
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いのちの本当のすがた
いくらものを持っていても、わたしたちは裸で生まれ、裸で死んでいきます。
裸で死ぬときには、お金やものは持っていません。
位も持っていません。
では生まれてから死ぬときまでのことはすべてムダなのでしょうか。
そんなことはありません。
その人が存在したことが、新しいいのちのモデルになることがあるのです。
死ぬときまでに自分がどれだけ新しい人のモデルになれるか。
それが望ましいいのちの本当のすがたです。
わたしたちは、たくさんの人のモデルになるために、自分をみがいていかなければなりません。
限りあるいのちのなかで、最大限に自分をみがいていくこと。それこそが人生の目標です。
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「持つ人生」と「なる人生」
そのためには、なにかを「持つ」のではなくて、なにかに「なる」ということが問われます。
これはエーリッヒ・フロムという心理学者がいっていることです。
「持つ人生」と「なる人生」は、はっきりと区別しなければいけません。
「持つ人生」は欲望とつながっているので、いくら手に入れても満足するということがありません。
だからもっともうけようとして、危ない株に投資したりしてたいへんなことになるわけです。
それに対して、どんな人になりたいか、どうありたいかということは、目標をつくってそこに向かえばいいだけです。
しかも「持つ人生」は持てば持つほどどんどん持っているものが重荷になりますが、「なる人生」は目標を次々と達成していくにつれて、こころが軽やかになつていきます。
人間はなにも持たずに生まれてきて、なにも持たずに死んでいくのですから、「持つ人生」と「なる人生」 のどちらが正しいかは、考えるまでもないことです。
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争いでものごとは解決しない
人類の歴史の中で、争いがものごとを解決した例はありません。
一時的に戦争で決着がついたように見えることでも、その後時間が経つと新たな争いの火種になっていたりします。
なぜなら、やられたほうはくやしい思いを引きずっていて、チャンスがあればやり返そうと考えるからです。
だから争いはものごとの解決にはなりません。
それなのに、おとなも子どももつい争ってしまうというのは、みんながまんが足りないのです。
わたしは、どうしても意見が合わないときには、考えながら待つようにしています。
「いますぐ」とことを急ぐからがまんできずに争いに走ってしまうのです。
人の生き死ににかかわるようなことでなければ、世の中に本当の「いますぐ」はありません。
せっかちになりがちな気持ちを落ち着かせて待っていれば、必ず話し合いの糸口ができるものです。
憲法が理想主義であることを厭う人たちでさえ、彼らが望む憲法に「誇り」という「理念」を欲しています。
しかし「理想」なき「理念」はありえないのではないでしょうか。
私たちが「理念」の出発点にしたいと思うものは数多くあります。
「国家」「民族」「歴史」「文化」「人間」「個人」「自由」・・・
さまざまな価値観を吟味し、できるだけ多くの人たちの「未来の幸せ」につながる理念を自分自身で見極めることが必要なのでしょう。
理念から憲法の各条項は生まれてきます。
日野原重明さんはその理念を「いのち」におきました。
私も共感します。
いちばん「心」に沁みてくるからです。
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この本の巻末には日本国憲法全文が掲載されています。
あらためて読み直してみると、私たち一人一人の立場に立った、実に頼りがいのある憲法だと感動しました。
私は為政者に、この憲法の理念を活かす方向で「ものごと」を考えていってほしいと切に願います。
「失ってから宝物であった」と気づくことは、この世にあまりにも多いことを思い起こすべきだと思うのです。