「ハックルベリー・フィンの冒けん」より抜き書き

「ハックルベリー・フィンの冒けん」を数十年ぶりに読み返しました。昨年出たばっかしの新訳です。題名もそうですが、本文もほとんど「ひらがな」でびっくりしました。まるでハックがしゃべっているようで「なるほど!」と感じます。

 先行の「トムソーヤの冒険」の続編ですが、比べものにならないほど生き生きとした小説になっています。

 その秘密は「トムソーヤの冒険」は三人称で書かれていますが、「ハックルベリー・フィンの冒けん」は最後までハックの一人称で書かれていることにあるでしょう。

 ヘミングウェイは「アメリカ文学はハックルベリイ・フィンの一冊の中に源を発した」と言ったそうです。

 考えてみればサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」(→心蹴られし「ライ麦畑」の一節に)も、ケルアックの「オン・ザ・ロード」(→「オン・ザ・ロード」より抜粋)もすべて一人称、まさに現代の「ハックルベリー・フィンの冒けん」に他ならないと気づきます。

 特に生き生きとした文章がありましたので抜き書きしました。

 (実は源が)熱狂的宗教国家であるアメリカの本性を感じさせる描写であり、私には説教師がトランプさんと重なってしまいました。(→宗教国家アメリカ

 (本の中でルビがつけられていた箇所は太字にしました)

「ハックルベリー・フィンの冒けん」柴田元幸訳(研究社 2017.12初版発行)p236~237

 おれたちがさいしょに行きついた小屋では、みんなでうたえるよう、せっきょうしがさんびかのかしをおしえていた。

 せっきょうしが二ぎょう言って、みんながうたう。人はたくさんいるし、けっこうねつれつにうたうので、きいてるとなかなかのものだった。

 それからせっきょうしはまた二ぎょう言って、みんながうたう、これをくりかえす。

 みんなだんだんもりあがってきて、うたう声もどんどん大きくなって、しまいにはうめく人やさけぶ人も出てきた。

 やがてせっきょうしがせっきょうをはじめた。

 これがまた気あいがはいっていて、えんだんのいっぽうのはじにまず行って、それからもういっぽうのはじに行って、それからしょうめんで身をのりだし、そのあいだずっとウデをふりまわしからだをゆすり、力いっぱいコトバをさけぶ。

 ときおり聖しょをかかげてひらき、あっちこっちにむけて見せて、「荒やをはうハジ知らずのヘビだ! ヘビを見て、生きよ!」とさけぶとみんなは「さかえあれ! ア=ー=メン!」と叫ぶ。

 てなぐあいにせっきょうしはさけびつづけ、みんなはうめき、泣き、アーメンととなえる。

 「おお、来たれ、くいあらためしものたちのせきに! 来たれ、つみに黒くそまれるものよ!(アーメン!)来たれ、やまいになやむものよ!(アーメン!)来たれ、手足のうごかぬもの、目の見えぬものよ!(アーメン!)来たれ、まずしきもの、くつじょくにまみれしものよ!(==メン!)来たれ、すべてのつかれ、よごれ、くるしむものよ!ーーやぶれた心で来たれ! くやめる心で来たれ! 来たれ、ボロとつみとドロにまみれて! きよめる水は万人にあたえられ、天ごくのとびらはひらいているーーおお、はいれ、はいりてやすらげ!」(==メン! グローリーグローリーハレルヤ!) うんぬんかんぬん。

 さけび声、泣き声があんまりすごいんで、もうせっきょうしがなんて言ってるのかわからない。

 みんなそこらじゅうで立ち上がって、グイグイまえに出て、ボロボロなみだを流しながら、くいあらためた人たちのせきまで行って、くいあらためた人たちがゴソッと立ち上がっていちばんまえのせきまで出るとみんなでうたって、さけんで、もうまるっきりくるったみたいにワラの上にドサッとたおれこんだ。

 アメリカ人も日本人もそのほとんどは今も昔も変わらぬ「反知性(反理屈)主義」的気性が底にあって、インテリ的なことには我慢できない人たちが多いことでしょう。
 
 首長というより酋長を望む気持ちが強いのは大昔も今もきっと同じなのだろうな〜〜と思えます。(私自身ですら少しその気が内在しているらしいと最近感じてきました)

 深沢七郎さんの言うとおり庶民の本質は「野蛮」「乱暴」「野生」「下品」(彼はこれらを実に独特に肯定的にとらえています)で、かの国もこの国も政治にそういう「反知性」を無意識に求めているのだろうな〜と(独断ですが)思える昨今です。
 →深沢七郎「庶民烈伝」より