少し前の話になりますが11月末に島根県へ二泊三日の家族旅行をしてきました。宮城県と島根県、距離ではなく互いにあまり知らないということで一番遠い県であるかもしれません。初めての島根旅行でしたが落ち着いた雰囲気がとても心地よく、私はもとより家族も皆また来たいと思ったようです。中でも私は小泉八雲記念館にとても惹かれました。
(定年退職をして2ヶ月半、毎日ダラダラ過ごしているうちに、考えることも本を読むのも嫌になり、風邪も引きやすく、ネット映画ばっかし見ているオタクジジイになり果ててしまいました。。。これでは脳みそが壊死しそうなので、またブログを書き続けることにしました。後で自分が読み返してためになるものを書いていきたいな〜と思っています)
・・・・・・・・
(島根への家族旅行)
旧暦10月は「神無月(かんなづき)」とよばれますが、出雲大社のある島根県では逆に「神在月(かみありづき)」というようです。
日本中の神々が一斉に出雲大社に戻るこの時期(11月)、出雲大社では「神在祭」が執り行われ一番の観光シーズンとなります。
そのせいで数ヶ月前に予約したにも関わらず、われわれ家族も一泊目は二つの旅館に分泊?ということになりました。(長女一家4人、われわれ夫婦と次女)
旅行中はレンタカーを借りて、「出雲大社」、松江のお堀「屋形船」めぐり、「松江城」、「小泉八雲記念館」、「足立美術館」とめぐり、宿泊は「美人の湯」という玉造温泉に二泊しました。
(水木しげるさん生誕の地「境港市(鳥取県)」もすぐそばだったのですが、時間が足りず次のお楽しみということになりました。小泉八雲の本を読んでいたら境港市は明治の半ばまで島根県であったようです)
道中車窓から見る風景は、宍道湖が湿度に影響しているのか、どこかしっとりとして清々しくとても落ち着いた雰囲気でした。
ゆったりした雰囲気は人口密度にもその理由があるのかもしれません。
島根県の人口はたった60万人、そのうち松江市は20万人で、県庁所在地では最も人口が少ないのだそうです。
神話や民話のふるさとであり宝庫として、さらに落ち着いた雰囲気といい、岩手の遠野地方にどことなく似ている感じがしました。
松江市は広々とした爽快感がありました。
足立美術館にも感動しました。
遠景となる山々もすべて買い取って造ったという大日本庭園は「自然と人工が切れ目なく接続した」屈指の芸術でした。
「美人の湯」玉造温泉の旅館には「雪おんな」もかくのごとしや?と思えるほどに肌の透き通る色白の仲居さんがいて、これは最高のPRだよな〜と感心しました。
・・・・・・・・
(小泉八雲との出会い)
さて「小泉八雲記念館」と彼が(1年半ほど)暮らした「小泉八雲旧居」を訪れた話です。
小泉八雲の『怪談』には「耳なし芳一」や「雪おんな」などだれもが知っている有名な話がたくさんあります。
話は知っていても、それを書いた(紹介した)小泉八雲については名前だけしか知っておりませんでした。
小泉八雲記念館で初めて小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の生涯、その人となりを知りました。
端正で立派な経歴の学者さんなんだろうなと思っていたのですが、さにあらず。
・・・・・・・・
(小泉八雲には右半身の写真しかない)
びっくりは三つありました。
まず写真にびっくりしました。
右半分の顔写真しかないのです。
実は少年期、遊具に目をぶつけ左目を失明していたそうです。それがコンプレックスで生涯左側の写真は撮らせなかったそうです。
ところが、右目も飛び出ていて少し異様なのですが、これまた強度の弱視であったそうなのです。
身長も160センチあるかないかの小柄で、正直風采が今一の方だったようです。
記念館の隣にある「小泉八雲旧居」で彼が実際に使っていた机と腰掛けを使ってみたのですが、机が極端に高く、腰掛けが極端に低いのです。
どのようにして文章を書いていたかを想像すると、棟方志功が版画を彫るのとほぼ変わらない姿勢であったようです。
・・・・・・・・
(夫婦だけにしか通じない特別な言語)
ふたつめは彼と妻との間で取り交わされた言葉です。
八雲はほとんど日本語を知らずして、出雲はもとより日本全国の民話、怪談を収集し、それらを(英語の)作品に仕上げたのです。
その収集と伝達は彼の妻「小泉節子」の労に拠っていました。
日本語を知らない八雲、英語を知らない節子、彼ら二人は夫婦間でしか通じない特殊な言語?を創造し、意思の疎通を図ったというのです。
手話のようなものだったのでしょうか?学芸員の方もわからないそうです。
・・・・・・・・
(不幸な生い立ちと破天荒な青春時代)
みっつめは彼が日本に来るまでの経歴です。
有名大学の先生だったのでは、と思っていましたが、実は彼には立派な学歴はありませんでした。
アイルランド人の父、アラブの血を引くギリシア人の母の間に生まれ、幼少期から十代後半までの間ギリシア、アイルランド、イギリス、フランスと移り住みました。
両親の離婚、イエズス会の寄宿学校退学、父の死、面倒を見てくれていた大叔母の破産など恵まれない幼少期、青年期でありました。
19歳で単身アメリカに渡り、ホテルボーイ、電報配達、広告取り、煙突掃除、校正など逼迫した生活をつづけながら図書館で文学に耽ったのでした。
やがて彼を認める人と出会い、新聞記者となりますが、アメリカ各地を興味の赴くまま転職したり、黒人女性と結婚したり、安食堂を開いたりしました。
しかし彼の文才は確かなもので、30歳を過ぎてすぐ大新聞の文芸部長に抜擢されたりもしたようです。
きわめつけは37歳のとき、まさにゴーギャンと同時期、同じ動機で同じマルティニーク諸島に移り住んだのです。
他にもいろいろなエピソードがありますが、こうしてみると私には彼が英米文学のある作家たちにとても似た気性や経歴であったように思われるのです。
それは「ロビンソン・クルーソー」のデフォー、「白鯨」のメルヴィル、「ハックルベリー・フィン」のマーク・トゥエイン、「ロードジム」のコンラッド等です。(ちなみに「ロードジム」の映画には伊丹十三が出ていました)
みんな海洋や異国への関心がとても強い冒険家でありました。
・・・・・・・・
(八雲の類い希なる感受性と文才)
記念館では『小泉八雲集』『明治日本の面影』の二冊を買い求め、ダラダラ生活で集中力が劣化し、まともな本を読むことがとても少なくなったこの頃なのですが、数ページくらいづつ時々読んでいました。
その文章力、観察力、想像力に驚き、そして人や土地への温かい眼差しに心打たれ、ところどころ鉛筆で線を入れています。
自分の不幸な生い立ち、様々な民族への関心と出会い、ケルトの遺伝子、なにかしら明治の日本それも神話の国「出雲」に彼の魂と共振するものがあったのでしょう。
松江中学の学生一人一人の思い出を書いている文章では、明治日本の気負い過ぎるほど純粋で真面目な学生たちを愛情込めて描き、貧しいゆえに病死した学生たちを供養のように追慕しています。
彼は、一字一句他人が文章を編集することを拒んだそうですが、さもありなんとつくづく思える文章だけがあります。
回を改めて彼の文章を抜き書きしておきたいと思います。
彼の『怪談』はもともと日本各地に伝わる民話を独自に再構成したものですが、読んでいてこれは「SF」として未来の「怪談」に再構成できそうだな、なんて考えはじめました。
「宇宙の雪おんな」なんて、近々もしかしたら書いてしまうかも知れません(笑)