無為徒食に飽きる

 仙台最後の屋台「大分軒」の名物親父さんがテレビで特集されました。85歳になる親父さんの言葉を聞いて胸を突かれました。私も同じだ、と。。。

 1964年(昭和39年)は東京オリンピックの年、このとき私は小学校5年生でした。

 当時、大分から仙台に遊びに来ていた親父さんは、ある飲み屋の主人に勧められるままに屋台を始めました。 この頃仙台には200軒もの屋台があったそうです。

 その後55年、「支那そば家」という屋号で、「支那そば」と「おでん」をお客さんにつくり続けて来ました。

 

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 しかし、仙台市は昭和40年代に、衛生上や美観上の観点から、屋台を一代限りとする条例をつくりました。その結果、今でも残っているのは、この「大分軒」だけになってしまったのです。

 

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 85歳、天皇陛下と同じ歳の親父さんは、まだまだ身体は丈夫ですが、「陛下の退位する今年がやめどきかな~」と思っていました。

 ところが、厳寒、真夏の5ヶ月間の休業日を家で過ごしているうちに、親父さんの気が変わってきました。

 「仕事がないとすることがない。家でテレビばっかり見ているが飽きてくる。生きるのが苦しくなってくる。いくら退職金がある、年金がある、お金の心配がない、という人だって、無為徒食なら決して幸せじゃないと思う」

 そして今、続けるかやめるかは「先延ばし」にしたそうです。

 

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 親父さんは「屋台」が天職だと語っていますが、始めたときは嫌でしょうがなかったそうです。下の職業に見られて家を借りることも借金もできなかったそうです。

 しかし、生きるために頑張っているうちに天職に変わっていったそうです。「最初からの天職なし」、そんな話を屋台に来た学生さんたちに話していました。 

 この特集を見て私は心打たれました。

 私も20代の頃仙台で働いていましたが、この親父さんの屋台に何度か行きました。

 癖のある親父さんで、「ラーメンひとつ」というと「そんなのね〜よ、うちは支那そばだ!」とか「お冷や一杯」というと「どんぶり洗う水もないのに飲ませる水なんかね~よ」とか実にユニークな偏屈親父でした。(→へそ曲がり

 

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 その頃のことを思い出しながら、歳は違えど親父さんの今の心境が私にはよくわかるのでした。

 私も昨年9月末、創業した会社を定年退職しました。それから4ヶ月半、無為徒食の人生にそろそろ飽きてきたからです。

 図書館とプールに通う日々、ようやく身体のリズムは整ってきましたが、人との交流もなく、頭もあまり使うことのない毎日、何か空しさを感じてしょうがありません。

  この特集を見て、私は悟りました。「私には仕事が必要だ!」と。

 そして今日、相棒の「さすらいのコンサルタント」クマさんが今年になって初めてわが家にやってきました。

 彼と近況を話し合いながら、私は「生きるために仕事をしたい」と語り、あれこれ中身について雑談しました。

 

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 今の私にとって「生きるため」というのは「金を得る」ことでありません。「生きるため」に「することを得る」ということです。

 「仕事よろず相談室 ノボ・プラン 代表:川嶋信雄」として仕事のお悩み・企画相談所を開設しようか、ということになりました。

 (無償の)ボランティアでいいですし、せっかく創った「D-MURA」を活用しようとも思っています。

 「朝行くところのある幸せ」「今日すべきことがある幸せ」、もう少ししたら再度手に入りそうです。

 ということで、ブログを書いて自分に約束です。

 仕事ジャンキーなのかな~~私は。。。