小泉八雲「おばあさんの話」より

 昨年末、忘年会の連絡で友人に電話したら彼の祖母の三十三回忌の最中でありました。そのおばあさんは、小学生だった私たちが彼の家へ遊びに行くと丁寧にお辞儀をしてくれて、こちらが顔を上げるとまだ手をついているので何度も頭を下げ直したものでした。小泉八雲の一篇を読んで半世紀以上前のそのことを思い出しました。

 小泉八雲の著作や妻節子さんの「思い出の記」を読むと、彼は「日本」に惹かれたというよりも(明治の)「日本人」に惹かれたのだな〜と思わずにはいられません。

 彼は老若男女問わず古い日本人の魂の美しさに感じ入り、それを丁寧に描写しています。

 その美しさが時代の流れの中で失われていく寂寥感や絶望感とともに。。。

 「明治日本の面影」にある「おばあさんの話」は、私の母方父方両方の祖母にも共通するところが多く、この文章を書き記しておきたいと思い引用しました。

 きっと「そうだったな〜」と懐かしく思い出す方は多いでしょう。

小泉八雲「明治日本の面影」より

おばあさんの話

 ・・・それは、やせた小柄な女性で、いつも黒い着物を着て、梅干しのようにしわだらけの顔をしている。もう六十八歳になるが、髪はまだ烏の濡れ羽色、つまり日本人に典型的な濃い藍色をしている。歯はいたって丈夫で、若い娘のように白くて美しい(まだ歯痛というものを知らないそうだ)。そして、まるで子供のように明るく澄んだ鋭い目をしている(字を読むにも針を持つにも、眼鏡がいらない)。その上、足腰も達者で、一里や二里なら平気で歩いて、神社やお寺の祭礼に出かけてゆき、孫たちの喜びそうなおみやげを買ってくる。もちろんその並はずれた頑健な休もご先祖様の賜ものにはちがいないが、ある程度は、本人の節制にもよる。おばあさんは肉や珍味の類はいっさい口にしない。どんなに勧めても、米、果実、野莱以外のものには、めったに箸を付けない。魚さえも口にしない。生き物を殺して食べるのは、殺生戒を犯すことになると固く信じているからだ。


 おばあさんは病気にもめったにかからない。かかると医学よりもご祈祷に頼り、神仏のご加護にすがる。ただし可愛い孫が病気になれば話は別で、お薬師様へのお詣りは後回しにして、すぐさま腕のいい西洋医を呼び寄せる。こんなおばあさんも、過去にただ一度だけ不承不承、薬を飲み、長いあいだ人の介護をうけたことがある。放れ馬に踏まれそうになった子供をかばい、うつ伏せに倒れた拍子に、顔の右頬に固く鋭い石片が骨にまで深く突き刺さったのである。手術によって一命は取り留めたものの、深い名誉の傷が生涯、頬に残ることになった。


 気候の変化は、おばあさんに何の意味も持たない。よほど寒い時期は別として、普段は手を火にかざしもせず、冬のさ中でも日が照れば縁側に出て針仕事をする。真冬に外の風に当たるのが好きなくらいだから、部屋の中の隙間風など気にも留めない。


 今も昔も、おばあさんは一日中、絶えず人の世話を焼いている。冬でも夏でも朝一番に日の出とともに目を覚ます。奉公人を起こし、子供たちに着物を着せ、朝食の仕度を指図し、ご先祖様へのお供え物を按配する。手のかかる子供が五人もいて、一番上の子を除いて、皆何一つひとりではできないで、おばあさんの世話になっているようだが、不思議なことに一人残らずいつもきちんと面倒を見てもらっている。


 家の中でおばあさんは夜ふとんに入るまで片時も手を休めない。この世の誰一人として、おばあさんが怠けている姿 − ぼんやり坐っていたとか、お喋りや人の話に夢中になっていたとかいう姿を見たことがない。おばあさんは暇さえあれば針仕事をしている。孫や息子のものはもちろん、嫁や使用人のものまで自分で縫ってしまう。特に仕立ての難しいもの・・たとえば絹の帯や礼服などを除けば、裁縫の仕事は決して余所に出さない。疲れも見せず手際よく、せっせと針を動かし縫い上げる。家庭で使うたいていの品は、ふとんや座ぶとん、掛け布や枕まで、自分で作るか女中に指図して縫わせたものだ。


 肉親以外の者が家を訪ねてきても、おばあさんの姿を見かけることは、まずない。たとえそれが血筋の者でも、おばあさんは腰を下ろして話しこんだりはしない。そんなふうに仕事を怠けてはお天道様に申し訳ないと思っているのだ。だからおばあさんと話したかったら、子供の世話、衣服や蚕や菜園の手入れ、食事の仕度などをしている最中を選ばなくてはいけない。来客のもてなしはすべておばあさんが取り仕切っているのに、その存在は伝説のように人伝てにしか知ることができない。


 おばあさんは悲しみに沈んでいるわけではないが、とても口数が少ない。孫相手だと子供言葉でお喋りをし、お伽詰もたくさん聞かせてくれるが、普段は口よりも顔や微笑みで話をする。その朗らかで可笑しな笑顔は誰からも好かれている。おばあさんはよく何時間も縫いものをして、一言もロをきかないことがある。これは昔の武家の作法で、侍の家で婦女子の無用のお喋りをことさらに忌むのである。この点、おばあさんはまさしく武家の女だ。大人が相手だと必要なこと以外いっさい口にせず、時折、皆を喜ばせるようなことを二言三言いうか、求められて助言をするだけだ。


 昼間から外出するのは、子供のお守りで、どこか面白い所、たいていは近くのお寺か神社に行く時と、祭礼か何かでお詣りに行く時に限られている。そうでない場合は、むしろ晩方の外出を好み、家の品や孫のために珍しい玩具などを買いこんでくる。そんな時は必ず女中を供に連れ、これにも何かちょっとした物を買ってやる。


 おばあさんの日常は、その横の日なたに座る家の年老いた猫のように静かで穏やかだから、傍目には犬猫なみにものを思わぬ暮らしのようにも見える。しかしそれは常住坐臥、ものを思わぬ時のない生活であった。実に多くの物事をおばあさんはその目で見、その耳で開き、その頭で考えぬいてきた。胸に蔵した、その窺い知れぬほど深い知慧を、おばあさんは求められればいつでも愛する者たちに分かち与えてやる。決断のつかぬ時、また苦難に見舞われた時、一家の者はまるで神託を仰ぐかのように、おばあさんに助言を乞う。おばあさんはすぐには答えない。いつものように座り、針を動かし、考える。そしてだいぶたった頃、「これこれこうするがよかろう」と言う。家の者は必ず言われた通りにする。その結果も必ずおばあさんの言った通りになる。それで皆は考える。おばあさんがこうお当てなさるのも、今生のお仕舞いにおられるから ー もう神仏に近いお身の上だからなのだろうと。


 小さい頃からおばあさんをよく知る老人たちは、おばあさんが人を悪く言うのを聞いたことがないと断言する。でもおばあさんはとても辛いめにあってきた ー たくさんの武士の家が金貸しにだまされて潰れていった時代には、おばあさんもずいぶんひどい仕打ちを受けた。その上、多くの愛する者たちと死に別れた。しかしその苦しみも悲しみも、おばあさんは決して人に漏らさない。怒りを露わにしたことは一度もない。世の悪行についておばあさんはお釈迦様と同じように考える ー それは迷いであり無知であり愚かなのだから、怒るよりも憐れんでやらなくてはいけないと。おばあさんの心には憎しみの付け入る隙もない。


 おばあさんはこれまでずっと、智惠を授ける慈悲の偉大な教師の法に従って生きてきた。いかなる悪事にも手を染めず、不断に善き行いに励んできた。たしかに、このような人は神の境涯まであと一歩と言えるだろう。それで皆は口をそろえて、おばあ様はもう生まれ変わることはあるまい、この世から直かに無上菩提の光の中に成仏なさるだろうと言う。……私はおばあさんがこれから先、少なくとも五万年くらいの間は生まれ変わってこないような気がする。この人を作り上げた社会の条件はとうの昔に消え去っている。そして次に来る新しい世の中では、どのみち、このような人は生きていけないだろうから。