SF画廊「ナイトホークス」

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エドワード・ホッパー「ナイトホークス」(1942

 

(フィリーズバー)

 1920年9月下旬のシカゴ、まだ夜の10時である。オフィスが多い東三番街にあるフィリーズバー。このへんでは玄人好みの店として人気があった。渋いやつらがワンショットのウイスキーを二三杯あおり、店の親父と短時間他愛もない話を交わして長居はしない。そんな粋な店だった。

 

 ところが、とんでもない災厄がやってきた。フィリーズバーは風前の灯火である。かつてはウィンドウの明かりが通りを照らし、人通りが賑やかだったこの通り。今では人っ子一人歩いていない。まだ秋の初めというのに寒さが身にしみるようだ。

 

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 よく磨かれたマホガニーのカウンターには、同じオフィスで働いているロバートとキャシーが並んで座っていた。背の高い赤毛のキャシーに今夜の赤いドレスはよく似合っていた。

 

 証券会社の管理職であるロバートはブルーのシャツに仕立てのよい紺のスーツ。俳優になりそこねた彼ならではの粋な着こなしをしている。40代半ばのロバートと20代後半のキャシーの関係は言うまでもないだろう。

 

(客たちの会話)

 ロバートは親父に語りかける。「な~~親父。ウィスキーのワンショットがコーヒーのワンカップに替わるなんて、とんでもない時代になったもんだぜ」

 

 親父は洗い物をしながら静かに答える。「まったくでさ~。世界大戦で若者はいなくなるし、禁酒法のせいで年配の客もほとんど来なくなってしまいましたよ。いつまで店を続けられるやら。出るのはため息ばかりってところですよ。飲み屋のくせに、最近では軽食なんかも出してなんとかやりくりしてますがね」

 

 「とはいっても、とっておきの隠し般若湯があるんだろう。チップははずむぜ」ロバートは薄笑いを浮かべながら小声で親父に話しかける。キャシーはあきれた顔で彼に一瞥をくれた後、手にしていたブックマッチの文字に再び眼を落とした。

 

 親父は、脇のカウンターに座っている男をちらっと見てからロバートに囁いた。「旦那、その話はまた後でしましょうや」ロバートには横目で脇の男が聴いているかもしれないと合図をした。

 

 もう一人のカウンターに座っている男性はさっき入ってきたばかりだ。初めて見る顔だ。何やら黒いシガレットケースのようなものをいじっていて、親父と会話をすることもない。ロバートも親父も「もしかしたら当局の者では?」といぶかしみながらも、知らんぷりをきめこんでいた。

 

 キャシーが物憂げにロバートに言う。「ね~~、今流行のスペイン風邪に私も罹っちゃったらどうしよう?もう死ぬだけかしら。若い人ほど死ぬ可能性が高いなんて不公平だわ。まだ少ししか人生を過ごしてないのに」

 

 「運命ってものは、公平でも平等でもないのさ。戦争で亡くなっている男たちもたくさんいる。俺たちにゃ今二人でいるこの時間を楽しむ以外にないってことだ」

 

 二年前に発生したスペイン風邪と呼ばれる強ウイルスのインフルエンザは、瞬く間に全世界に蔓延しパンデミックとなっていた。第一次世界大戦に従軍した若者たちも多数亡くなっていた。この年はその第三波に見舞われていた。

 

 キャシーは何か言いたかったが、コーヒーを一口飲むだけにした。それからキャシーはロバートの耳元で囁いた。「あの男の人が持っている物って何なのかしら?しじゅう指で触っているのよ。なんか不気味だわ」

 

(暗い通り)

 しばらくして、カウンターに一人居た男は親父に合図をして精算をした。そして帽子を目深に被り直して静かに店を出た。

 

 ロバートはなんとなくその男の後を追ってみたいと思った。男が出てすぐ、二人も店を出た。最初に出た男はまだ遠くには行けないはずだった。しかし、人通りもなく見通しの良い場所なのに、もうどこにもその男はいないのだ。

 

 ロバートはきょろきょろ探した。しばらくしてキャシーが「もう帰りましょう」とせかすので二人は捜すのをあきらめ、それぞれの巣に帰ることにした。月だけが明るく通りを照らしていた。

 

 突然キャシーが咳こみはじめた。急に具合が悪くなったようだ。彼女は震えた声で「寒いわ」とつぶやく。ロバートは心配して彼女を抱き寄せた。彼女は発熱していた。

  

(忌まわしき帰還)

 カウンターにいたもう一人の男は、店を出た後、ある店の陰に入った。回りに人がいないのを慎重に確認してからうずくまり、ベルトのバックルを回した。数秒後、彼の姿は消えた。目撃者はだれもいなかった。

 

 彼の名前はビリーと言う。ロサンゼルス郊外にある一軒家の自宅に彼は突然戻ってきた。一人暮らしの彼が何をしているのか誰も知らなかった。在宅で何か研究している学者だろうと思われていた。実際そのとおりであったのだが。

 

 帰ってきたのはこの世界の12月10日だった。その3日後、彼は時空移動に関する共同研究者のもとを訪れるべく、中国に渡っていた。彼は国際的な秘密研究グループの一員だった。

 

 そのグループはタイムトラベルを密かに研究していた。大学や政府のだれも知らないオカルト科学者集団がずっと昔から存在していたのである。宗教団体の看板などを隠れみのにしながら。

 

 中国武漢市に着いて次の日の昼、彼は食材を買いに市場に出かけた。途中で急に咳が出始めた。その後すぐに強烈な悪寒がして、気を失った。

 

 彼は時空を超えてスペイン風邪を持ち込んでしまったのだ。

 

 そのウイルスは彼の身体の中で変異をしていた。ビリーは発病から3日後、武漢市の病院で亡くなった。それは2019年12月のことであった。

 

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