「リスク」と「デインジャー」

 全く違うことも同じ言葉で表現されてしまいます。言葉が貧しくなると。そのいい例が「リスク」です。なにせ「原発事故もこんにゃくゼリーも『リスク』に変わりはないでしょう」と言われるのですから。言われた私たちも一瞬「そうだよな〜」。。。あれ?
 でも、ぜったい違うと思いませんか?

 原発事故の危険性と、こんにゃくゼリー以下諸々の危険性とは。

 「こんにゃくゼリーで死んだ人も何人もいる」「自動車だって毎年数千人の方が亡くなる」「原発が怖い人はタバコもやめなさい」「私は原発よりもあなた(孫さん)の会社の(携帯基地局の)電磁波が怖い」

 これらを政治家や著名?な経済評論家とかディベート本出版の企業家とかが、声高らかに主張してきたんです。。。

 つまり、ここにあげたものはみな(同じ)「リスク」である。リスクを死亡者の数で比較したら原発なんか優等生だ。(まだ誰も死んでいない)

 詳しく分析すればとんでもない詭弁であることがわかるはずです。そのへんは「原発危機と東大話法」に譲るとして、このような(私には)不可思議な比較が、論理的な衣をまとって世のエリートから主張されるのには、もうひとつ大きな問題があると思うのです。

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 そんな思いを内田樹(たつる)さんがスッキリさせてくれました。

 言葉が足りなかったんです

 同じ「リスク」という言葉で考えるから、とんでもない比較が生じてくるのです。

 だから、昔から言われているあれ、「クソみそ一緒」と同じことになっているんです。

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 「管理できる危険」を「risk(リスク)」、「管理できない危険」を「danger(デインジャー)」と二つに分ければ、原発事故は、こんにゃくゼリーは、いったいどちらに入るでしょう。

 「リスク」も「デインジャー」も、もともと存在する言葉です。ということは、人間は何らかの基準でこの二つを分けて考えてきたということです。

 それが今ごっちゃにされ、そこから言葉が組み立てられ、一見つじつまが合っているように錯覚させられているように思えます。

 「危険」をこの二種類に分けることを妥当と認めれば、基準についてはあれこれ議論があるでしょうが、きっとこんにゃくゼリーと原発は別々な「危険」に分かれることでしょう。

 その結果、異なる種類の「危険」を同一の土俵に並べる詭弁も避けられることでしょう。

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 それでは、内田樹(たつる)さんのブログ「人災の構図と「荒天型」の人間について」より引用します。(読みやすいようにタイトルを付けました)

地球はメダルを競う「競技場」じゃない


◆「晴天型の世界観」

 東日本大震災から1年を経過して、これが「天災」であるより以上に「人災」であるという印象を私たちは抱いている。

 「天災」は自然現象であり、私たちにはそれを防ぐ力がない。

 「人災」は人間の力で統御できるし、しなければならない災禍である。

 その災禍の広がりを防げなかった。

 「人災」を用意したのは私たちの社会を深く蝕んでいる「無根拠な楽観」である。「晴天型の世界観」と言ってもよい。


◆競争に夢中になっているアスリート

 私たちはある「枠組み」の中で「ゲーム」をしている。

 賭けられているものは権力とか財貨とか文化資本とか、いずれにせよ「価値あるもの」である。

 そのやりとりのゲーム、誰かが勝てば誰かが負ける「ゼロサム」の競争をしている。そういう考え方が「晴天型の世界観」である。

 ゲームに夢中な当人は「これこそリアル・ワールドの生存競争」で、自分ほどのリアリストはいないと思い込んでいる。

 彼は競争に夢中になっているアスリートに似ている。

 フィールドがあり、ルールが決められ、審判がいるゲームをしているものにとってはたしかに「勝ち負け」が何より重要である。


◆二種類の「危険」

 だが、アリーナがゴジラに踏みつぶされたり、地割れに呑み込まれたりするときには、「生き延びること」がそれに優先する。

 そのような想定外の危機のときでも、適切にふるまって、人々に適切な指示を与えて、被害を最小化することのできる人間がいる。

 国際関係論では、「管理できる危険」を「リスク」 「管理できない危険」を「デインジャー」と呼び分ける。

 「晴天型」の競争主義者は「負けるリスク」のことしか考えない。

 だから「デインジャー」については何も考えない。

 「グローバル競争」とか「グローバル人材」というような言葉をうれしそうに口にするのはこの類の人間である。

 このタイプの人間は危機的局面では腰を抜かしてものの役に立たない。(後略)
(参考:他のブログでこのようにも語っています)
「リスク」とは計量可能な危険性、「デインジャー」とは、計量不能の危険性、リスク・マネジメントやリスク・ヘッジが「効かない」種類の前代未聞の事態のことである。


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 もうひとつ内田先生のブログから関連のものを抜粋してみます。(読みやすいようにタイトルを付けました)→原発ゼロ元年の年頭にあたり

地球は利益追及の「株式会社」じゃない


◆会社経営者の論理

 だから、原発を「損得」で考える場合に「支払期限」をどこに設定するかで、結論が変わってくる。

 「この夏の電力不足は待ったなしだ」とか「このままでは国内の製造業は壊滅する」というようなタイプの「この」という指示形容詞を多用する言説は総じて「短期決算」型の損得に固着している。

 その切実さを私は理解できないわけではない。

 だが、短期的にはメリットがあるが、長期的にはメリットのない選択肢をリコメンドする人々は「長期的なデメリット」についての言及を忌避する傾向がある。

 「私が勧めるこの選択肢は、短期的には利があるが、長期的には利がない。でも、短期で損失を計上した場合、わが社は倒産するので、そもそも『長期的メリット』について語ることさえできなくなるであろう」と会社経営者が言うのは筋が通っている。

 そういうルールでゲームをしているからである。

 株式会社が短期的な資金繰りの失敗で「待ったなし」ですぐ倒産するのは、100社起業した株式会社のうち99社が100年後には存在しないことを誰も不思議に思わないような「短期決戦」ルールで制度設計されているからである。


◆国家経営と会社経営は違う

 だが、国家経営は会社経営とは違う。

 国民国家はそういうルールでやっているわけではない。

 そもそも国民国家は「利益を出す」ためにつくられたものではない。

 「存続し続けること」が第一目的なのである。

 「石にかじりついても存続し続けること」が国民国家の仕事のすべてである。

 もし「私の経営理念は利益を出すことではなく、会社を存続させることです」という会社経営者がいたら、「バカ」だと思われるだろう。

 だから、ビジネスマインドで国家経営をされては困ると私はつねづね申し上げているのである。

 短期的利益を言い立てて、原発再稼働を推進している人たちは総じてビジネスマインドの人々である。

 彼らは「電気料金が上がったら企業は海外に生産拠点を移して、国内の雇用が失われる」というようなことをまるで「自明のこと」のように語る。

 いかなる場合でも最大の利益を求めて行動するのが人間として「当然」のふるまいだと信じているからである。

 コスト削減を最優先して国内の雇用確保をないがしろにするのは国民経済的視点からは「いささか問題」ではないかという反省はここにはまったくない。


◆「トリクルダウン」のトリック

 国民経済というのは「日本列島に住む1億3000万人の同胞をどうやって養うか」という経世済民の工夫のことである。

 それを考えるのが統治者の仕事である。

 ビジネスマンは同胞の雇用の確保よりも自社の利益確保の方が優先させる。

 「まずオレが儲けること」があらゆる国家的事業に優先されねばならない。だから、国がビジネスの邪魔をするなら、オレはよその国に出て行くよと平然と言い放つ。

 この不思議な主張を正当化するのは例の「トリクルダウン」理論である。

 「オレを金持ちにしてくれたら、みんなにいずれ分配するよ」というあれである。

 この理論の根本的瑕疵は「オレが金持ちになったら」というときの「金持ち」の基準が示されていないことである。

 「オレはまだ皆さんに分配するほどの金持ちになっていない」と自己申告しさえすれば、企業がどれほど収益を上げようと、CEOの個人資産が10億ドルに達しようと、貧者への分配は始まらない。

 その歴史的経験からそろそろ私たちは学んでもいい頃ではないかと思う。(後略)

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 えい! 今日は長ったらしい引用ついでに、おまけにもうひとつ!

 トリクルダウン理論の総本家、竹中平蔵さんの談話もどうぞ。


朝日新聞 2012.5.25

 ・・・・「ゼロ%成長で本当にいいんですか。それでは何年かすれば、日本の1人当たり所得は韓国にも抜かれるでしょう。私が成長反対派に言いたいのは、君たちは貧しくなる自由がある。でも豊かになりたい人の足を引っ張るな、ということです」

 この方、まさに経済アスリート的言葉を発しますので、そのまま「リスク」と「デインジャー」の区別をしていなければ大変だな〜と思って調べたら、少しだけほっとしました。。。


竹中平蔵・中田宏『告発・ニッポンの大問題30』
(アスコム・2011年)195ページ

 竹中「ご指摘のように、原発に関しては、使用済み核燃料をどうするかという仕組みがありません。これは、すべてのつけを将来の世代に回していたと言える。原発は一見すると省エネで安い。安いけれども実は財政赤字 と同じで、将来の世代の負担が非常に大きいものだったということが、今回の大震災をきっかけにはっきりわかったわけです。(後略)」

 それにしても、経済価値に換算してはじめて原発に反対というのは、反面怖いことです。

 もし逆の損得勘定を行ったら「勘定合って地球なし」になりそうです。

 彼らのような「経済オンリー人種」「効率教原理主義者」はこう言うのでしょうか?

 「地球がだめなら火星があるさ」と。

参考
 変てこりんなお話
 とても不思議な「確率論」