3.10か3.12か

 3.11の次の日3.12って、とても大事だなと思うんです。3.11は追悼の日、3.12は新生の日。自分は社会は「どう変わるべきだったのか」「どう変わることができたのか」「今日からどう変えるのか」を考える日じゃないかな〜と思うんです、一人ひとりが。

(石巻、幼稚園バスで姉妹を亡くした子たち。私が撮った写真です。。。)

 ゆうべは二年前の日記を読み返しました。

 あの3.11からの数日間、日記に書き記した中から少しだけ抜粋して振り返りをしたいと思います。

3月11日(金)

 ・・・会社内メチャクチャ。大崎タイムス社屋潰れる。ろうそくをつけて20:00就寝。余震何十回もあり。寒くもあり不安な一夜。湯たんぽ活躍

 (この日、津波が発生したことはわかったが、海岸部でまさかあのような悲劇が生じているとはまだ知ることができなかった)

3月12日(土)

 食べ物はジャガイモふかし、冷凍そばパン、菓子類

 ・・・津波は全国で発生。死者は千人以上の大変な地震となった。父の所に行く。寒くて寝られなかったらしい。町内会より炊き出しのおにぎり二個が届けられていた。

 北浦(兄夫婦)も被害ひどくゆうべは車で寝たとのこと。夕方正夫さん(娘の夫)仙台からピストンバスで戻る。

 携帯は使えなくなっている。「おてんとさん」に一時間半並んでお菓子(しかない)や練炭を買う。ガソリン僅少。

 (まだ津波の甚大さ、原発事故などを知ることができなかった)

3月13日(日

 食べ物は、冷凍そばパン、ぞうすい

 ・・・死者は一万人以上にもなるらしい。三陸の各市町は壊滅。百数十か所もの屋上に取り残されている人多し。福島原発が爆発。世界最大級の惨事。

 とも子宅(娘)、北浦(兄夫婦)、松ヶ崎(おば)、友人の母上などまわり水配達する。

 北浦のビニールハウスから古い石油ストーブ見つかり借りる。父へ持っていく。

 (この古い石油ストーブがなければ父はあぶなかったと思う。私たちがストーブを入手したのはこの二日後だった。それまで湯たんぽだけだった。水は長期間断水だったが、自宅から16キロ離れた会社の水道が出たので、それを皆に配達していた)


 この後、毎日水配達、食料の物々交換などガソリンを極度に節約しながらぎりぎりの生活を送りました。

 電気が自宅に復旧したのは3月17日(木)、約一週間後でした。このときテレビを見て大きなショックを受けました。。。

 水が完全に復旧したのは3月25日(金)、約二週間後でした。この日久しぶりに入浴したらめまいがしました。

 この年は7月半ばまで冷蔵庫を使うことをやめてみました。しかしその後挫折して現在に至ります。。。

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 あまりにむごく、あまりに多すぎる犠牲者の方々、残されたご家族、今も続く深刻な苦労の日々。。。

 私なんかの体験を書くなんて申し訳ない。。。

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 そう思いつつも、2011年3月11日からの二週間をつづった自分の物語を今日まで何度も読み直し、新たな物語をつむぎ続けてきました。

 このブログというものを使って、今日まで物語(リアルの原稿)をつづってきました。

 そして今日。あれから二年目の2013年3月12日、今まで書きつづった物語を読み直し、新たな章をどう進めるべきかと考えています。

 そんな行為の中で、あの3月11日以前には自分でもよく知らなかった「自分の価値観」がはっきりしてきました。

 価値観が変わったのではなく、眠っていた価値観が目を覚ましたのだと自分では思っています。

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 3.11の鎮魂の後、3.10の旧い社会や自分に戻るのではなく、3.12の新しい自分や社会を創っていかなければいけないと思っています。

 人の記憶は「去る者日々に疎し」です。

 だからこそ記憶を新たな種に変え、未来への新しい芽にして受け継いでいかなければ、と思うんです。

 そうでないと、いつかは何もかも風化してしまうのではないでしょうか?

 そして、いつかまた繰り返すことになるのではないでしょうか?

 避けられぬ天災とともにある「避けられるはずの人災」を。

参考
 →嬉し涙の「三陸生わかめ」
 →命をつないだ蕎麦パン
 →冷蔵庫に屈した日