好きです!「九条」

 好きこそものの上手なれ。好きだからこそ苦しくても工夫を重ね、結果独創が生じていきます。互いに人まねを繰り返すなら、それは「堂々巡り」というものではないでしょうか?
 右肩が上がってきてとても歩きにくいこの頃、「九条大好き派」の方々の文章を長いまま(ひんしゅく覚悟で)載せて、自分の「コンセプト・データベース」にもしようと思っています。興味ある方はどうぞお読みください。

 今朝の新聞から、まずは「心情的九条好きです論」を抜粋します。

朝日新聞 2013.7.25

九条の国、誇り高き痩せ我慢 森達也

 アメリカの銃社会をテーマとしたドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』でマイケル・ムーアは、黒人や先住民族を加虐してきた建国の歴史があるからこそ、アメリカ市民は銃を手放せないのだと主張した。報復が怖いからだ。つまり銃を手もとに置く人は勇敢なのではない。臆病なのだ。

 ・・・改憲派は平和ボケなどと嘲笑するけれど、9条は抑止論にとらわれた世界への、とてもラディカルな提言となっている。スペインのグランカナリア島には、9条の碑が設置されている。戦争地域ではよく、「日本は9条の国だ」と話しかけられる。世界に対して日本は、身をもって稀有(けう)な実例を示し続けている。

 ・・・この街から銃が消える日はまだ遠い。でもこの精神だけは手放さない。誰もが銃を持たない社会。その実現のために、我が家は街で最初に銃を捨てる宣言をした。怖いけれど高望みを維持し続けてきた。

 ・・・自衛隊を軍隊にして誇りを取り戻そうと言う人がいる。意味がわからない。他の国と同じで何が誇らしいのだろう。不安と闘いながら世界に理念を示し続けたこの国に生まれたことを僕は何よりも誇りに思う。

 (もり・たつや 56年生まれ。映画監督・作家。明治大特任教授。近著に『虚実亭日乗』)

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 続いて、ちくま文庫『9条どうでしょう』より、内田樹さんの「論理的九条擁護論」を抜粋して紹介します。

 (読みやすいように見出しをつけました)

戦争をするための法律

 ・・・国の交戦権は、これを認めない」を廃して、「日本は陸海空軍を有し、自衛のため、国連安保理事会の議決に従って、武力を行使することができる」というふうに変えたいという。

 この改訂の意図はどう考えても「戦争ができるようになりたい」というほかに解釈のしようがない。

 というのは、九条をそのように改訂するということは「戦争をしてもよい条件」を実定的に定めるということである。どれほど合理的で厳密な規定であろうとも、「戦争をするためにクリアーすべき条件」を定めた法律は「戦争をしないための法律」ではなく、「戦争をするための法律」である。

人を殺してもよい条件

 例えば刑法一九九条は「殺人罪」を「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」と規定しているが、「人を殺してもよい条件」は規定していない。改憲論者のロジックは、「自衛のため又は公共の福祉に適する場合を除き」という限定条件を刑法一九九条に書き加えろと言っているのに似ている。

 「どういう場合なら殺人をしても罰せられないかをあらかじめ規定しておきましょうよ。だってときには人を殺さなければならない場合だってあるでしょう。除外規定を決めておけば、すっきりした気分で人が殺せるじゃないですか」

 そうこの人たちは主張しているのである。

 ときには人を殺さなければならない場合があることは事実である。しかし、そのことと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには千里の逕庭(けいてい)がある。

二者択一は「子ども」の論理

 殺人について私たちが知っているのは、「人を殺さなければならない場合がある」という事実と「人を殺してはならない」という禁令が同時に存在しているということである。そして、その二つの両立不可能の要請のあいだに「引き裂かれてあること」が人間の悲劇的宿命であるということである。

 矛盾した二つの要請のあいだでふらふらしているのは気分が悪いから、どちらかに片づけてすっきりしたい、話を単純にしてくれないとわからないと彼らは言う。

 それは「子ども」の主張である。「武装国家」か「非武装中立国家」かの二者択一しかないというのは「子ども」の論理である。ものごとが単純でないと気持が悪いというのは「子ども」の生理である。

「すっきりすること」は重要か?

 「大人」はそういうことを言わない。

 「人を殺さなければならない場合がある」ということと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには論理的関係はない。

 なぜなら「人を殺してもよい条件」を確定した瞬間に、「人を殺してはならない」という禁戒は無効化されてしまうからだ。「人を殺してもよい条件」を確定してしまったら、あとは「人を殺したい」場合に「そのためにクリアーすべき条件」を探し出すことだけに人間は頭を使うようになるだろう。人間がそういう度し難い生き物である、ということを忘れてはならない。

 「人を殺さなければならない場合がある」というのは現実である。「人を殺してはならない」というのは理念である。この相剋する現実と理念を私たちは同時に引き受け、同時に生きなければならない。

 どちらかに片づければすっきりすると政治家たちは言う。だが、「すっきりすること」というのはそんなに重要なことなのだろうか。人間が現に置かれている状況から目を背けてまで、「すっきりする」必要があるのだろうか。

「武」というものの本質

 自衛隊は「緊急避難」のための「戦力」である。この原則は現在おおかたの国民によって不文律として承認されており、それで十分であると私は考える。自衛のためであれ、暴力はできるだけ発動したくない、発動した場合でもできるだけ限定的なものにとどめたい。国民のほとんど全員はそう考えている。これを「矛盾している」とか「正統性が認められていない」と文句を言う人は法律の趣旨だけでなく、おそらく「武」というものの本質を知らない人である。

 「兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。」

 これは老子の言葉である。

 「兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。巳むを得ずして而して之を用うれば、恬淡(てんたん)なるを上と為す。勝って而も美とせず。之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、則ち以て志を天下に得べからず。」(第三十一章)

 私なりに現代語訳すると老子の言葉はつぎのようになる。

 「軍備は不吉な装備であり、志高い人間の用いるものではない。やむをえず軍備を用いるときはその存在が自己目的化しないことを上策とする。軍事的勝利を得ることはすこしも喜ばしいことではない。軍事的勝利を喜ぶ人間は、いわば殺人を快とする人間である。殺人を快とする者が国際社会においてその企図についての支持者を得ることはありえない。」

 武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存する。「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせば「武力」ではない。ただの「暴力」である。

武の正当性を保証する九条

 私は改憲論者より老子の方が知性において勝っていると考えている。それゆえ、その教えに従って、「正統性が認められていない」ことこそが自衛隊の正統性を担保するだろうと考えるのである。

 自衛隊はその原理において「戦争ができない軍隊」である。この「戦争をしないはずの軍隊」が莫大な国家予算を費やして近代的な軍事力を備えることに国民があまり反対しないのは、憲法九条の「重し」が利いているからである。憲法九条という「封印」が自衛隊に「武の正統性」を保証しているからである。私はそのように考えている。

 改憲論者は憲法九条が自衛隊の正統性を傷つけていると主張している。私はこの主張を退け、逆に憲法九条こそが自衛隊の「武の正統性」を根拠づけていると考えている。

矛盾ゆえに相補的に支え合っている

 自衛隊は憲法制定とほぼ同時に、憲法と同じくGHQの強い指導のもとに発足した。つまり、この二つの制度は本質的に「双子」なのである。それは、この二つの制度がともにアメリカ合衆国の世界戟略から、より直接的にはGHQの占領政策から生まれたことを考えれば当たり前すぎることである。

 憲法九条と自衛隊が矛盾した存在であるのは、「矛盾していること」こそがそもそものはじめから両者に託された政治的機能だからである。憲法九条と自衛隊は相互に排除し合っているのではなく、相補的に支え合っているのである。

 歴代の日本の続治者たちは、「憲法九条と自衛隊」この「双子的制度」を受け容れてきた。その間に自衛隊は増強され、世界有数の軍隊になり、目的限定的にアメリカを支援してきたが、それでも「戦争ができない軍隊」であるという本質的な規定は揺るがなかった。私はこれを「武の正統性」が危うく維持されてきた貴重な六十年間だったと評価している。先進国の中で、これほど長期にわたって戦争にコミットしていない国は例外的である。

 「戦争をしないできた」という事実が戦後日本のみごとな経済成長、効果的な法治、民生の安定を基礎づけてきた という事実を否定できる人間はいないだろう。

  憲法九条のリアリティは自衛隊に支えられており、自衛隊の正統性は憲法九条の「封印」によって担保されている。憲法九条と自衛隊がリアルに括抗している限り、日本は世界でも例外的に安全な国でいられると私は信じている。

  おそらく、おおかたの日本国民は口には出さないけれど、私と同じように考え ていると私は思う。だからこそ、これまで人々は憲法九条の改訂を拒み、自衛隊の存在を受け容れてきたのである。

クールに考えること

 政治・外交の話をするときに優先的に配慮すべきは綱領的に整合的な理論を語ることでもなく、「政治的に正しい」言葉を語ることでもなく、イデオロギー的確信や、憂国の至情を正直に吐露することでもない。どうすれば、日本が生き延びる上で遭遇するリスクをコントロールし、マネージし、ヘッジすることができるかという問いについてクールに考えることである。

 「憲法九条」は私たち戦後世代の「育ての母」です。

 どんなかたちにせよ、私たち戦後世代の「命」を守り続けてくれました。

 私たちが「殺人」をすることを防いでくれました。

 その母が青い目をしているからといって非難する人たちがいます。

 それは、大切な「育ての母」につばをはきかけると同じではないでしょうか?