対話と論争

 内田樹さんのブログは読んでいて小気味よく感じます。なるほどこんなふうに分類できるんだ!こんなふうに定義できるんだ!という新鮮な驚きがいつもあります。
 私たちの頭の中(左脳のほうですが)、やっていることは「分類」と「定義」がほとんどみたいです。

 分けては名付け、分けては名付けの繰り返し。

 とはいえ、分ける「もと」があっての話です。

 分ける「もと」を感受する右脳が豊かじゃなければ、左脳は材料不足で空運転?

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(勝海舟と坂本龍馬)

 内田樹さんの「コミュニケーション能力とは何か?」というブログを読みました。

  →原文はこちら

 斬新な「定義」、わかりやすい「分類」にストレッチ後の爽快感に似たものを感じました。

 「コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力だということである。」

 なるほどこんな定義ができるんだ!とびっくりしました。

 小見出しを付けて一部引用いたします。

学生との会話

 就活している学生が「これからはもっとも重視されるのはコミュニケーション能力だそうです」と言うので、「うん、そうだね」と頷きながらも、この子は「コミュニケーション能力」ということの意味をどう考えているのかなとちょっと不安になった。

 たぶん「自分の意見をはっきり言う」とか「目をきらきらさせて人の話を聞く」とか、そういう事態をぼんやり想像しているのだろうと思う。

 もちろん、それで間違っているわけではない。でも、どうしたら「そういうこと」が可能になるかについてはいささか込み入った話になる。

不調から抜け出す力

 ・・・つまり、コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力だということである。

臨機応変にコードを破ること

 ・・・それは今の例でおわかり頂けるように、「ふつうはしないことを、あえてする」というかたちで発動する。私たちは二人それぞれに「客や店員がふつうはしないこと」をして、それによって一度は途絶しかけたコミュニケーションの回路は回復した。

「ふつうはしないこと」は「ふつうはしないこと」という定義から明らかなようにマニュアル化することができない。それは臨機応変に、即興で、その場の特殊事情を勘案して、自己責任で、適宜、コードを破ることだからである。

 コミュニケーションの定義から、「対話」と「論争」という分類(違い)へ話は進みます。

なぜわかり合えないのか

 「立場が大きく異なる者同士が互いにわかり合えずにいる」のはそれぞれがおのれの「立場」から踏み出さないからである。「立場」が規定する語り口やロジックに絡め取られているからである。「わかり合う」ためには「立場」が定めるコードを適宜破ることが必要だというコミュニケーションについての基礎的知見が共有されていないからである。

 「あなたは何が言いたいのですか。わからないので、しばらく私の方は黙って耳を傾けますから、私にわかるように説明してください」と相手に発言の優先権を譲るというのが対話のマナーであるが、このマナーは今の日本社会では認知されていない。

日本人のコミュニケーション

 今の日本でのコミュニケーションの基本的なマナーは「自分の言いたいことを大声でがなり立て、相手を黙らせること」である。相手に「私を説得するチャンス」を与える人間より、相手に何も言わせない人間の方が社会的に高い評価を得ている。そんな社会でコミュニケーション能力が育つはずがない。

「対話」と「論争」の違い

 「相手に私を説得するチャンスを与える」というのは、コミュニケーションが成り立つかどうかを決する死活的な条件である。それは「あなたの言い分が正しいのか、私の言い分が正しいのか、しばらく判断をペンディングする」ということを意味するからである。

 ボクシングの世界タイトルマッチで、試合の前にチャンピオンベルトを返還して、それをどちらにも属さない中立的なところに保管するのに似ている。真理がいずれにあるのか、それについては対話が終わるまで未決にしておく。いずれに理があるのかを、しばらく宙づりにする。これが対話である。論争とはそこが違う。論争というのはチャンピオンベルトを巻いたもの同士が殴り合って、相手のベルトをはぎ取ろうとすることである。

 対話において、真理は仮説的にではあれ未決状態に置かれねばならぬ。そうしないと「説得」という手続きには入れない。

相手の知性を信頼する

 「説得」というのは、相手の知性を信頼することである。

 両者がともに認める前提から出発し、両者がともに認める論理に沿って話を進めれば、いずれ私たちは同じ結論にたどりつくはずだというのが「説得」を成り立たせる仮説である。

 「私が正しく、お前は間違っていた」という事態と「あなたは私の意見に合意した」という事態は、遠目で見ると、ありようは似ているが、アプローチが違う。

 説得するためには対面している相手の知性に対する「敬意」をどんなことがあっても手放してはならない。そして、先ほどから述べている「コードを破る」というふるまいは相手の知性に対して敬意を持つものによってしか担われない。

相手の懐に飛び込む

 コミュニケーションの失調を回復するために私たちは何をするか。

 私がスーパーのレジでしたように、「身を乗り出す」のである。相手に近づく。相手の息がかかり、体温が感じられるところまで近づく。相手の懐に飛び込む。「信」と言ってもよいし、「誠」と言ってもよい。それが相手の知性に対する敬意の表現であることが伝わるなら、行き詰まっていたコミュニケーションはそこで息を吹き返す。

 かつて凡庸な攘夷論者であった坂本龍馬は開国論者である幕臣勝海舟を斬り殺すために勝の家を訪れたことがあった。勝は龍馬を座敷に上げて、「お前さんたちのようなのが毎日来るよ。まあ、話を聴くがいいぜ」と世界情勢について長広舌をふるった。龍馬はたちまち開国論に転じ、その場で勝に弟子入りしてしまった。龍馬を「説得」したのは、勝の議論のコンテンツの正しさではない(龍馬には勝が語っていることの真偽を判定できるだけの知識がなかった)。そうではなく、自分を殺しに来た青年の懐にまっすぐ飛び込み、その知性を信じた勝の「誠」である。

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 実に身につまされる内容です。

 なにせ夫婦間でさえ、対話じゃなく論争の日々ですし。。。

 己の小ささとともに「対話」の難しさも感じています。

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 私は以前から思っていました。

 「いくら論争したって人の考えを変えることなどできない」

 しかし今では、こう言い直すべきかなと感じ始めています。

 「論争で人を変えることはできないが、対話で互いは変わり得る」

 もし対話によっても「変えられない」「変わらない」とすれば、それは己の「誠」が足りないからなのでしょう。

 「理屈」より「誠」を磨かなければ。。。

(参考)
 →論争するの、キライです