「生物の世界」拾い読み

 今とても大事な視点は「生き物」としての私たち。「人間」でも「社会人」でも「会社人」でもなく。「生き物」の視点から考えると政治経済的な考え方とは異なる思考が生じます。

 今西錦司著「生物の世界」を拾い読みで読み直しています。たぶん40年ぶりくらいです。この本で知った「類推」という考え方は、若い私にとって衝撃的でした。

 かつて、今西錦司を親分とする京都学派とよばれる若き学者達は、自然科学、文化人類学、民俗学、霊長類学、哲学、歴史学などなど様々な分野を横断し、探検や観察を主体としたとてもユニークな方法のもと、独自の分野を開拓してきました。

 そのうちダーウィンの弱肉強食ともいえる進化論に異を唱え、独自の「棲み分け」理論を提唱したのが今西錦司です。その根本には、東洋的ともいえる「環境と生物の一体化」「共存と多様な相互関係」という生き生きした自然観がありました。

環境は生物自身の延長である
 環境とはそこで生物が生活する世界であり、生活の場である。しかしそれは単に生活空間といったような物理的な意味のものでなくて、生物の立場からいえばそれは生物自身が支配している生物自身の延長である

生物と環境はもとは一つのものから分化した
 生物の中に環境的性質が存在し、環境の中に生物的性質が存在するということは、生物と環境とが別々の存在でなくて、もとは一つのものから分化発展した、一つの体系に属していることを意味する。

生物とその生物の環境とで一つの体系をなす
 その体系というものは、広い意味ではこのわれわれの世界全体が一つの体系ということにもなるが、一匹一匹の生物がそれぞれの世界の中心をなしているという意味からいえば、その生物とその生物の環境とでやはり一つの体系をつくっているといえるのである。

 なぜこのような考え方が今大事かというと、政治的経済的観点から考え出した結論が「環境=地球」を滅ぼしかねないことにつながる可能性が露わになってきたからです。

 先日のブログ「一流のスポーツマン」で紹介したサッカーの岡田監督が言うとおりです。

「地球上の物質は全てが循環している。環境問題の本質は、循環だ。それを止めているのが人間活動だ」。ウランを燃やすとプルトニウムができるが、再びウランには戻らない。原発は、循環型でないことが問題だと強調した。

 最近の記事で知ったのですが、保守派として有名な櫻○女史などは、堂々と「核兵器保有の選択肢を捨ててはいけない、だから原発を継続しなければいけない」と主張しています。

 政治的なレベルではそのような理屈もありうるのでしょう。しかし、「生き物」とか「環境」といったレベルでは致命的です。核というパンドラの箱を開けてしまった今、地球があって政治経済があるということをしっかり認識しないと自殺行為になってしまいます。

 さて、「生物の世界」ではもうひとつ重要なテーマ「類推」というものについて語っています。同じ京都学派の哲学者である上山春平さんの後書きより引用します。

類推とは直感的論理である
 彼は「類推の合理化こそは新しい生物学の生命であるとまでいい得るであろう」と書いている。類推というのは一種の直感的な論理であって、従来、科学的な論理として広く認められてきた演繹や帰納とは全く類を異にしている。
 ・・・したがって演繹と帰納の論理を、ひっくるめて、分析的な論理とよぶことができる。これにたいして、今西さんが「新しい生物学の生命」とよぶ類推は、どうやら、分析の手続きとは無縁であるらしい。それは、消極的に表現すれば、非分析的な論理であり、他の言い方をすれば、直感的な論理と言うことができよう

 この話も、先のブログで岡田監督が話している言葉と呼応します。

 話は、地球温暖化へと進む。岡田氏は「温暖化しているのか、本当のところは何百年先にしかわからない。ただ、これが原因だ、怪しいと感じたら、やめなければならない。何か違うと感じる『直感』を信じて進むしかない」と話す。

 上山春平さんの話を続けます。

湯川秀樹博士が語る「類推」
 ・・・たとえば物理学の分野で独創的な仕事をした湯川秀樹さんは、『創造的人間』という本のなかで、「帰納論理と演繹論理が科学的思考には共に重要なものであることはいうまでもないが、科学における理論の最も重要な進歩は飛躍的に行われるのである。その場合は帰納論理や演繹論理では足りない。われわれ研究者が一番苦しむところはここである。普通ここで入用なのは天才的な直感とか洞察力であるといわれている。その正体はよくわからないのであるが、これと関連がありそうに思われることの一つは類推である。」と書いている

 執筆の時若干39歳であったという今西錦司は、「類推」について深く掘り下げていますがここでは省きます。ここまで書いてて私が思うのはこんなことです。

 コップ(容器)がなければどんな種類の液体も入らないように、環境という器があって私たちが存在している。もともと私たちの肉体と一体化している環境を、あたかも別な世界のようにして悪影響を考えずにそれをいじくりまわす。それを科学技術の発展と誤解している。これくらい幼稚なことってあるだろうか?

参考
 一流のスポーツマン
 学問する順番
 とても不思議な確率論
 宇宙船ビーグル号と似ている今
 本の中の世界より
 毛細血管の話
 自然は曲線を創り人間は直線を創る
 人間の理性の限界
 キューリ夫人がもし今を知ったら