「下山の思想」より

 実に読みやすい本でした。五木寛之著「下山の思想」です。新書ですが15分くらいで読み終わりました。内容が大変しっくりくるのでスイスイ読めるのです。それと、さすがに「作家」です。読ませる力が違います。

 「下山」というと、引く人も多いことでしょう。特に壮年のビジネスパーソンたちには。

 かく言う私もその一人で、毎朝仕事場で会社のみんなと、実に欧米型モデルのミーティングを開いて、あれこれ指図しています。

 それなのに私が書くブログは、いつもアンチ欧米、アンチビジネス、アンチ成長みたいにとられるものばかりです。

 それって二重人格じゃない?って思う人もいるでしょう。

 ところが違うんです。

 そんなふうに思うことが、本当はアナログが人間の(自然も)本質なのにすっかりデジタルに冒されてしまった証拠だと思うんです。

 アナログ的思想は「主(あるじ)」、デジタル的思考法は主(あるじ)の重宝な「道具」にすぎないと思うんです。

 これからの社会、経済はもうデジタル型二分法では未来を描けないと思っています。

 五木寛之さんの「下山の思想」も同じコンセプトです。

 本書からいくつか抜粋します。

 まずは「下山」とは「成長」から「成熟」へ、というくだりです。

成熟のとき

 時代は 「下山のとき」 である。十年前からずっとそう言い続けていた。

 山に登る、ということは、三つの要素があると思う。

 一つは、山に登る、こと。

 二つ目は山頂をきわめること。

 三つは、下山すること、である。

 その三つは、切り離しがたくつながっている。

 登山しっぱなし、ということはありえない。登った山からは、必ず下りるのだ。そして安全に、確実に、できれば優雅に麓にたどりつく。

 そして家へもどり、また新たな登山の夢をはぐくむ。

 登山、といえば山に登ることだけを考えがちである。だが、登ることは登山という行為の第一段階にすぎない。

 山頂をきわめる。そしてひと息入れたら下山にかかる。

 下山に失敗すれば、登山は成功とはいえない。登って、下りる。両方とも登山であり、山は下りてこそ、次の山頂をめざすことができる。

 急坂を登り、重い荷物を背おって頂上をめざすとき、人は周囲を見回す余裕はない。必死で山頂をめざすことに没頭しているからだ。

 しかし、下山の過程は、どこか心に余裕が生まれる。遠くを見はるかすと、海が見えたり、町が見えたりする。足もとに咲く高山植物をカメラで撮ることもある。こんな高い場所にも、こんな花が咲くのかと驚く。岩の陰から顔を出す雷鳥に目をとめるときもある。

 一歩一歩、足を踏みしめ安全に下りていきつつ、自分の人生の来し方、行く末を思うこともあるのではないか。

 下山する、ということは、決して登ることにくらべて価値のないことではない。一国の歴史も、時代もそうだ。文化は下山の時代にこそ成熟するとはいえないだろうか。

 私たちの時代は、すでに下山にさしかかっている。そのことをマイナスと受けとる必要はない。実りある下山の時代を、見事に終えてこそ、新しい登山へのチャレンジもあるのだ。

 少子化は進むだろう。輸出型の経済も変っていくだろう。強国、大国をめざす必要もなくなっていくだろう。そして、ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望が開けるのではないか。下山にため息をつくことはないのだ。

 次はデジタル型二分法偏重の時代は終わりにしないと。。。というくだりです。

二分法はやさしい

 『論語』のなかに、記憶はあいまいだが、とても印象に残った文句があった。
                     
 正確に再現することができないのは申訳ないのだが、たぶん、こんな意味の言葉だったと思う。

 『貧にして怨(うら)むなきは難(かた)し。富みて驕(おご)るなきは易(やす)し』
                                        
 富める者、権力をもつ者、学のある者、若さにあふれる者、良家の出の者、などなど、アドバンテージを有する者が、謙虚にふるまうのは、それほど難しいことではない。逆に、貧する者がおだやかにそれに耐えることのほうが、はるかに難しい、といったような意味だろうか。

 もてる者の驕(おご)らぬことを世間は多とする。しかし、それは思ったより楽にできるものなのだ。むしろ、逆境にあって世を呪わぬことのほうが、はるかに困難なことだ。

 孔子という人は、人心の機微(きび)に通じたところがあるなあ、と、しみじみ思ったものだった。

 聖人君子というイメージで、その人を敬遠する場合が少なくない。孔子もそうだが、親鸞や道元などもそうだ。しかし、そんな聖人視されている人から、ふっと人間味のある言葉を聞かされると、ぐつとくる。

 聖人と無頼とを、二つにわけて区別することはわりあいやさしいのだ。しかし、私たちはある人物についても、黒か白の二分法で考えがちなものである。

 格差社会というのは、金持ちと貧民が同居する世の中のことである。富める国とか、貧しい国とかいう分け方ではなく、一つの国家、一つの社会に、その両方が混在するというのが格差社会の本質だろう。

 デフレのなかのインフレ、インフレのなかのデフレ、資本主義的社会主義、社会主義的資本主義、というのは、そういうことである。

 健康とか、病気とかいう世界にも、このことはあてはまる。
                      
 人は生まれながらにして四百四病を内側にかかえて生きるという禅の考えかたは正しい。人はある意味で、すべて病人である、ともいえるだろう。

 私たちの体の中には、その両者が混在し、しかも時々刻々と変化しつつ年を重ねていく。
                           
 黒か白か、善か悪か、という世界は、すでに失われてしまっているのだ。

 このように考えると、あらゆる人に対して「こうである」というふうには定義できず、「こちらの要素がそちらの要素より強すぎる」というような定義になっていくでしょう。

 「正邪の問題」は「ウェイトの問題」に変わり、あらゆる価値観の人が共通の土俵で話し合える基本になりえるでしょう。

 そこで話し合われるのは「良きバランスのためには?」ということになるでしょう。バランスとは政治関係だけではありません。「現在と未来」「人工と自然」というようなバランスもあるでしょう。

 ただし、この共通土俵では、「何のために」という目的をしっかり共通理解することが必要です。

 それは「地球が持続可能であるためには」「子ども達の未来のためには」というようなものになることでしょう。

 バランスをよくしていこうという思考においては、「現在のメリット」だけに固執する考え方は受け入れられなくなってくることでしょう。

 アナログの魂でデジタル社会を良き方向へ変えていく。これが、これからのビジネスパーソンに必要な考え方になることでしょう。

 アナログは「人間(自然)中心主義」、私の関係するIT産業だって、こんな言葉が大事とされていってほしいものです。(私の愚作ですが)

 「ITは 強者の剣となるよりも 弱者の杖となるべし」