「頭がよい」は善いことか?

 平安時代の日本や近世以前の中国では、「有職故実(ゆうそくこじつ)」を司る人が重宝にされていたらしいです。有職故実とはいろんな儀式における過去の実施記録のことですから、求められる能力とはズバリ「記憶力」です。この時代は「記憶力がよい」イコール「頭がよい」だったのでしょう。
 それは、コンピューターで言えばハードディスク容量にあたりますね。

 現代で「頭がよい」とは、頭の回転がよい、つまり理解や計算が速い人を言うようです。その能力を測る指標がIQや試験や学歴です。

 コンピューターで言えばCPU性能がそれでしょう。

 このように、「頭がよい」は時代により基準が異なっています。

 しかし共通していることもあります。

 それは、「頭がよい」とは何を考えたか、何をしたかではなく、相対的性能」について言われるということです。

 そのため、いわゆる「頭がよい」と言われる人は、道具として重宝がられ、あまり望ましくない目的に使われても大いに力を発揮するのであります。

 そしてそのことが社会でも奨励され、本人もその目的の如何に関わらず、自分の性能を発揮することに、まるでスポーツのような快感を得ているのです。

 結果、「善きことを生み出す、善きものに育む」ことと相反する場合がとても多いのです。

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 このことが、どうも人類の悲劇につながっているように思います。

 頭が良い人のほとんどは、他のおおぜいの凡人と同じく「人類の幸せ」などあまり考えません。

 むしろ、自分の性能をいかによく使ってもらうかを価値基準にしていますし、それを自己実現と考えている節もあります。

 過去から現代までの歴史を振り返れば、頭が良い人たちが自らの能力を思う存分発揮して、残酷な兵器を造ったり、悲惨な戦争の首謀者にもなってきたのです。

 「頭が良い」という言葉が、「考えが良い」「行為が良い」ということを指す時代は、いつかくるのでしょうか?

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 さて、私は今「アルジャーノンに花束を」という感動のSF(?)小説を読んでいます。

 この小説は次のように紹介されています。

 32歳になっても幼児の知能しかないパン屋の店員チャーリー・ゴードン。そんな彼に、夢のような話が舞い込んだ。大学の偉い先生が頭をよくしてくれるというのだ。この申し出にとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に、連日検査を受けることに。やがて手術により、チャーリーは天才に変貌したが・・・超知能を手に入れた青年の愛と憎しみ、喜びと孤独を通して人間の心の真実に迫り、全世界が涙した現代の聖書

 私も今夢中で読んでいます。

 読みながら「人間の知能」とは「人間の存在」にとって一体何なのだろうか?と深く考えさせられます。

 本の三分の一くらいのページにこんな文章がありました。今日のテーマに関係するものがあると思いました。

 四月十六日 − 今日はだいぶ気分がいいが、それでもみんながぼくを笑いものにしたりおもしろがっていたのかと思うと腹が立ってくる。

 ニーマ一教授のいうようにぼくの知能が増大して、七十というぼくのIQが二倍になればきっとみんなぼくを好きになって友だちになってくれるかもしれない。

 いずれにしろIQとはなにかよくわからない。ニーマ一教授によれば知能がどれだけあるかをはかるものだそうである。雑貨店で目方をはかるはかりのようなものだ。                    
 だがストラウス博士は教授と大議論をしてIQは知能をはかるものではないといった。IQはどれだけの知能を得られるかを示すものであって計量カップの目盛りのようなものである。

 カップには中味を入れなければならない。

 ぼくの知能テストをしたりアルジャーノンの世話をしているバート・セルドンにきいてみたら、二人とも間違っているという人もいるだろうし、彼が読んでいるものによれば、IQはこれまでに学んだものをふくむさまざまなものをはかるもので、じっさいには知能のよいものさしではないという。

 だからぼくにはいぜんとしてIQというものがわからないしみんなそれぞれにこういうものだと違うことをいう。ぼくのはいま百ぐらいで、もうじき百五十を越すはずだが、彼らはぽくにもっと中味を注ぎこまねばならないだろう。

 ぼくは何もいいたくはないが、IQがなんであるかどこにあるかわからないのだとしたらーーーIQがどれだけになったということがどうしてわかるのだろうか。

 明後日ロールシャッハ・テストを受けるようにとニーマ一教授がいった。ロールシャッハとは何だろう。

 この本は、主人公の日記を通して、私たち知性体としての「人間」の一生、その喜び、苦しみ、業を心に深く感じさせてくれる芸術作品です。