グレーは白黒どっちに?

 「放射能で亡くなった人はいない」「今すぐ影響はない」。だからどうするの?原発問題で私たちの間に深刻な意見の対立があるのは、このようなグレーの問題を判断する基準についてよく考えてこなかったからではないでしょうか。

 「放射能で亡くなった人はいない」とテレビで堂々とのたまわった中部電力の課長さんは、会社から口頭注意を受けたそうです。昨日の新聞に小さく載っていました。

 でもこの課長さん、きっと心の中では「俺は正しいことをしただけだ」と思っていますよ。いや、注意したという上司もきっと同じ思いじゃないですか?たぶん。

 なぜなら、彼らの判断基準は「疑わしきは罰するべからず」でしょうから。

 しかも「疑わしいこと」が「リスク」であろうが「デインジャー」であろうが、その基準に違いはありません。

  →「リスク」と「デインジャー」

 それが適切なことかどうか考えたことはあまりないんだと思います。

 それ以外の判断基準についても考えたことはないんだと思うんです。

 さらに、彼らにはとても単純な論理(へ理屈)に基づく(はた迷惑な)プライドがあると思うんです。

 「私が原発を推進したいのは決して利益確保のためだけではない。論理的に(経済効率的に)そうあるべきなのだ」と。

 だから私は「野蛮人(教養がなく粗野な人)」と言っているんです。基準の選択が単純すぎるからです。

 それと「短期経済偏重バカ」「盲目的科学技術信仰バカ」「貧感性百戦論魔バカ」だからです。

 彼らは結果的に、確信犯として「無謀な選択」を論理的?にしてしまいます。

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 振り返ってみれば、「薬品の安全性の問題」も「二酸化炭素削減の問題」も同じようなグレー判断のジレンマを抱えています。

  →サリドマイドと放射能

 どういうわけか、こちらはグレーは白ではなくて黒になっているんです?

 ところが「放射能」の人体への影響は、これらよりはるかに危険なグレーと思われるのに、「グレーは白だ!」と声高に叫ぶ人たちが異様に多いのです。異常です。効率教拝金主義にかぶれすぎているからでしょうか?

 世界では、国によってグレーに対する対応が二種類あるようです。

 「悪いことが証明され、法律で禁止されたら、渋々やめる」日本方式
 「悪いとわかっていることをやらないのはもちろん、いいとわかっていないことはしない」スウェーデン方式
 スウェーデン方式にしか未来はないのではないでしょうか?

  →テクテクノロジー革命

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 このようなグレー問題に対して私たちはどのような判断基準をとるべきか、生命科学者の福岡伸一さんが『動的平衡2』で語っています。

 私なりに(勝手に)総括するとこうなると思います。

 「判断には三つのフェーズ(相)がある」

 「あるフェーズで判断が困難なことは、別なフェーズで判断しなければいけない」

 「真偽」=科学 → 「善悪」=哲学→ 「美醜」=アート
 科学で不明なことの判断は哲学に拠らねばならない。哲学で困難な判断はアートに拠らねばならない。

 科学で不明なことを別なフェーズの判断基準に拠らないことが問題である。

福岡伸一『動的平衡2』

第9草 木を見て森を見ず

 相関性はありそうだが、因果関係は不明である。このような問題を前に、私たちはどのような立場をとればいいのだろうか。ここにこそ、科学というものを私たち自身の等身大の知性となすべき最も重要な論点が含まれている。

 科学は真偽のレベルで物事を追究し、その末に真か偽かの判断を下す。科学は大気中にほんのわずかしか含まれていない二酸化炭素の、さらにほんのわずかな上昇を捉えた。一方、このところ気温も年々上昇傾向にある。しかし、ここから先の解釈、つまり両者の相関関係に果たして因果関係があるかどうかについて、科学の議論は分かれる。多くの科学者は何らかの因果関係があると考えているが、懐疑論もある。

 では、因果関係が認められない現象について、当面、私たちは静観することが正しいあり方なのか。そうではない。科学の粋を尽くして究明を極めたけれど、現時点ではどうしても究明しつくせない限界点というものがある。

 二酸化炭素濃度の上昇と気温上昇との関係に因果関係がないのなら、やがて気温は低下傾向に転じるかもしれない。しかし、もし因果関係があるとすれば? このまま現在の事態を放置すれば、動的平衡の視点から考えて、地球環境は長い時間経過のうちに取り返しのつかないことになるかもしれない。そして、その可能性はかなり高い。その場合に備えて、なんらかのアクションをとるべきではないのか。

 このときの「べき」は、もはや科学だけの問題ではない。強いて言えば、科学の限界の問題である。ここに初めて判断のレベルが、真偽を見極めるレベルから、善悪を見極めるレベルへと移行する。

 現在、科学技術をめぐる諸問題の判断において、この判断のレベルの切り分けが極めて曖昧になっている。それを見分ける能力が本当の意味の科学リテラシーであり、教養と呼べるものではないか。

 どんなに科学技術が進歩したところで、人間は森羅万象のすべてを理解することはできない。常に「わからないこと」を抱えて生きていかなければならない存在である。

 そのとき、私たちは「真か偽か」という科学的な議論から離れ、「善か悪か」という哲学的な判断を迫られることになる。しかし、この場合にも私たちは部分しか見ることができない。そして部分の効率や幸福を求めると、逆にみんなの効率や幸福にはつながらないことも少なくないのである。

 では、いったい、私たち人間は何を判断基準にして生きていけばいいのだろうか。これはもう一義的に言えるようなテーマではないと思う。ただ、個人的な感想として言えば「真偽」「善悪」の次のフェーズとして「美しいか、美しくないか」という「美醜」のレベルがあるように感じている。 

 例えば、臓器移植が是か非かというときに「真偽」や「善悪」のレベルの判断以外に「臓器移植は美しくない」と思う人がいる。遺伝子組み換え食品がいくら安全だと説得されても、それが美しいとは思えない人もいる。そういう異なったフェーズの判断が混在していることに、現代の問題の根深さがある。これを解きほぐしていく糸口はどこかにないものだろうか

 さて最初に戻って「教養」と「野蛮」の関係についてですが、坂口安吾はこんなことを書いてました。


「悪妻論」より

 才媛といふタイプがある。数学ができるのだか、語学ができるのだか、物理学ができるのだか知らないが、人間性といふものへの省察に就てはゼロなのだ。

 つまり学問はあるかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異らぬ。

参考
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