悪意の対話者

 日本海は今「晴天なれども波高し」。日中韓で小さな島をめぐり「日本海オールスター戦」に突入です。なんと騒々しいゲームでしょう。お互いガス抜きした後、対話できるといいですね。

 かつて中国に旅行したとき、ガイドさんからこんな注意を受けました。

 「たとえば、あなたが立っているところに、中国人が自転車でぶつかってきたとしましょう。向こうが百パーセント悪い状況です。こんな場合でも中国人は、『立っていたあなたが悪い』といいます。日本人はつい『すみません』と言う癖がありますが、それは絶対に言わないでください。そうしたらあなたが百パーセント悪いことになりますから」

 なにか、今の尖閣諸島問題にもつながるような話です。

 韓国には行ったことがないのでよくわかりませんが、竹島問題を見てるとこっちも似たようなものに思えてきます。

 ところで最近思ったんですが、これって「市場の値切り」光景と似ていませんか?

 「これいくら?」「千円です」「高い!百円で売って」「何をバカなこと!」「それじゃ2百円ではどう?」「全然話になりません」

 「それじゃいくらならいいの?」「う〜ん、思い切って6百円まで」「3百円!」「だめ!」「4百円!」「ま〜いいか。持ってけ泥棒!」

 なんか、こんな国民性もあるんじゃないですかね。ある意味単純な。

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 さて、以前に買ってた本なんですが、北川達夫著『不都合な相手と話す技術』(フィンランド式「対話力」入門)を、今朝パラパラとめくり直してみました。

 この本は、巷にあふれる一冊読書時間5分〜10分間の内容しかない「タイトルだけびっくりさせるノウハウ本」とは全然違います!

 実にしっかりした内容なので読むのも時間がかかります。

 今日は、ふと開いたページを紹介します。

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 なるほど、怖いのは「大声で騒ぐ人たち」ではない。「静かで知的な『悪意の対話者』」なのだと納得してしまいました。

悪葛の対話者に対抗するには

 対話とは「戦わないコミュニケーション」であると、私は主張している。そのためか、対話というと「優しい」あるいは「穏健な」コミュニケーションという印象を抱く方が多い。だが、そのような印象を抱いたままでいると危険である。対話によって窮地に追い込まれることもあるからだ。

 対話的な態度をとる「対話者」は理性的な感じがして、いかにも穏健な話し合いができそうな雰囲気を漂わせている。実際、対話者は自分の主張をゴリ押しすることもなければ、あなたの主張を批判の名の下に罵倒することもない。あなたの主張に対しては質問を返すか、詳しい説明を求めるだけ。もちろん対話者は自分の主張もするのだが、それを受け入れるかどうかは完全にあなたに委ねる。何ともつかみどころがないが、悪い感じもしない。いつしか対立ムードは消え、お互いの合意の下で妥協が成立していく

 理想的な話し合いのように見えるかもしれないが、外見に惑わされてはいけない。対話の根底に価値観の対立があることを忘れてはならない。言葉と言葉を戦わせないにしても、その根底に価値観の相克があることを忘れてはならないのだ。

 価値観の対立が激しければ激しいほど、対話者の口調は穏やかになっていく。あなたが怒れば怒るほど、対話者は冷静になっていく。その穏やかさと冷静さの裏に「悪意」があるとき、対話は恐ろしい方向へと進んでいく。お互いの価値観をすり合わせ、お互いの合意の下で妥協を成立させたと思い込んでいるのはあなただけ。ウイン・ウインだと喜んでいるのもあなただけ。実際には「悪意の対話者」 の手玉に取られていることがある。いつの間にか「悪意の対話者」の価値観にすっぽりとのみ込まれてしまうのだ。

教え込み教育が招いた「洗脳」される悲劇

 「悪意の対話者」を描いた面白い小説がある。ジェームズ・クラベルの『23分間の奇跡』(青島幸男訳・集英社文庫)という短編である。これは新任の女性教師と生徒たちとの問で繰り広げられる、世にも恐ろしい対話を描いた作品だ。教師の価値観と生徒たちの価値観は絶望的に対立しており、そのことは両者ともに重々承知している。そのような厳しい状況において、教師は生徒たちと「お互いの合意の下で妥協を成立」させていくのである。

 一例を挙げよう。教室には国旗が飾ってある。生徒たちは 「国旗は大切なものである」と教え込まれている。毎朝、国旗に向かって忠誠を誓うように教え込まれている。だが、新任の女性教師は「ある理由」から、その国旗を教室に飾っておくわけにはいかない。国旗に忠誠を誓わせるわけにもいかない。そこで生徒たちに向かって問いかける。

 国旗に「忠誠を誓う」とはどういう意味か? 国旗が国の象徴とはどういう意味か? 国旗よりも人間の生命のほうが大切なのではないか? 国を大切に思う気持ちがあれば、国旗なんて必要ないのではないか?

 どの質問にも生徒たちはまともに答えることができない。生徒たちは混乱し、追い込まれていく。ここで女性教師は最後の一手に出る。この国旗はとても美しいので、少し切り分けてもらえないか? 国旗が大切なものなら、みんなも少しずつ切り分けて持っていたらどうか?

 すると生徒たちは自らはさみを持ち出し、みんなで楽しそうに大切な国旗を切り裂いてしまったのである。

 この小説の見どころは、対話者に徹する女性教師の姿勢にある。生徒たちは自由に発言することが許されている。生徒たちの発言に対して、女性教師は絶対に「NO」とは言わない。その代わりに要所で質問するのである。質問に答えられれば称賛し、答えられなければ親切に教える。女性教師から何かを提案することもあるが、その提案を受け入れるかどうかを決めるのは生徒たちである。この女性教師が「悪意の対話者」でなければ、これほどよい先生もいないだろう。だが、彼女は明確な「悪意」をもって対話に臨んでいる。ごくわずかな時間で生徒たちを完全に「洗脳」してしまうのである。

 なぜ生徒たちは丸め込まれたのか? それは自分たちの信念についてまじめに考えたことがなかったからだ。教え込まれたことを無批判に覚え込んでいただけだからだ。なぜ国旗は大切なのか? なぜ国旗に忠誠を誓うのか? そもそも国旗とは何なのか? こういったことを一度でも考えたことがあれば、大切な国旗を大喜びで切り刻むことはなかっただろう。そのことの悲劇性に気がつかないこともなかっただろう。

 まさに「教え込み教育」「覚え込み教育」 の悲劇である。だが、大人もうかうかしていられない。自分の信念について、価値観についてあらためて考えてみたことがあるだろうか?自分が「絶対に正しい」と信じていることについて、「なぜそう言えるのか?」と自問自答したことがあるだろうか? 自分の信念に対してつねに「なぜ?」を問いかけていないと、「悪意の対話者」に手玉に取られてしまうおそれがある。「悪意の対話者」が揺さぶりをかけてくるのは、そこのところだからだ。

「悪者」ではない「悪意の対話者」

 このように、まずは自分の信念について「なぜ?」を問う。次にすべきは、自分の信念を根底から否定するような反論を考えること。自分の信念を客観的に見つめることができるし、自分の思考プロセスの弱点を見いだすこともできる。対話のみならず攻撃的な議論においても批判に対する防御として役立つことだろう。

 次にすべきは、その反論にどこまで譲ることができるのかを考えること。逆に言えば、自分にとって「絶対に譲れないこと」を明確にする作業でもある。譲れるところは譲ってしまうのが対話の基本であるし(これによって攻撃的な議論においても無用の批判を封じることができる)、自分の信念に不用意に固執すると「悪意の対話者」に根底から揺さぶられるおそれがあるからだ。

 そして何よりも注意すべきは、「悪意の対話者」は『23分間の奇跡』の女性教師も含め、決して「悪者」ではないということ。何らかの意図をもって対話に臨んでいることは確かだが、それが「尊意」であるか「悪意」であるかは価値観の問題にすぎない。ただ、対話の手法を熟知し、相手と価値観をすり合わせるように見せかけ、現実には自分の価値観に取り込んでしまうあたりが悪質といえば悪質なので、あえて「悪意の対話者」と評したのである。

 対話の手法も知らず、信念を批判的に検証することもないまま「悪意の対話者」と対峙すれば、いとも簡単に取り込まれてしまうだろう。だが、ここまで書けばおわかりだろうが、あなた自身が「悪意の対話者」になれば、現実のコミュニ−ションにおいて極めて有利に話を進めることができるのである。

 最後の一行がとても恐いと思いました。

 なぜ政治家のほとんどがダース・ヴェーダーになっていくのか?

 その暗黒面の魅力というものを感じさせられるからです。

 己の思想を吟味している余裕はなくなるのです。彼らには。優柔不断といわれ、権力闘争の中でつぶされていくのです。

 若き頃からよほど、己の思想、信念を吟味してきた人でさえ、筋を通していくのは難しい。

 これが、「政治」というものの本質である「権力」という「人間界のダークサイド」です。

 ましてや、もともと「人間的教養」と「人間的修養」が不足な「元気がよい目立ちたがり屋」があこがれる「政治の世界」。。。

朝日新聞「声」欄 2012.8.18
無職 加藤 淳

 ・・・私はかねがね、政治家になってほしい人と政治家を志す人とのミスマッチを案じてきた。政治家には、私利に疎く不言実行、熟慮断行タイプが望ましいと思うが、そういう人に限って立候補したがらず、結果としてその逆のタイプの人ばかりが政治家になっているような気がする。・・・

 政治家に「もっとよくしてもらおう」なんて決して考えず、政治家に「大事なことだけは絶対守ってもらおう」という気持ちで付き合うのが私はいいと思うんです。

 主人は私たちのはずですから。今や逆転して、「無意識の家畜」になりたがる人が多い気がします。

 もし「国会」が大きな「村役場」だと考えたら、私たちは「国会」とどのように付き合うでしょうか?