これからの本屋さん

 「本は本屋で買う」から「本は様々な店で買う」社会のほうがおもしろそうです。
 私はこんなことを夢想しました。

 あらゆる業種のお店で、本も売ったらどうだろう。そのほうが本当に質の高い本が流通するのではないだろうか?と。

 たとえばケーキ屋さんでは、その店のご主人が選んだ「お菓子」にまつわる本をショーケース脇の小さな本棚にそろえて売るとか。

 薬屋さんでは「薬」や「健康」についての本を、服屋さんでは「ファッション」の本を、飲食店では「食」に関する本を売るとか。

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 品ぞろえは店主や、本が好きなその店のスタッフが行います。

 仕入れは、本を売るお店専用のおろし屋さんというか取り次ぎ会社があって、買い取り、委託など事情に合わせて本を調達してくれるのです。

 そんな取り次ぎをする個人コンサル兼取次店があってもおもしろいですね。

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 さて、各お店は本で儲けようなんてけちな考えは持ちません。

 自分が本当に好きな本、影響を受けた本をお客様にも読んでもらうことで共感しあうために置くのです。

 置く本にしても、メジャーな本よりはマイナーな出版社、個人出版など、なかなか手に入れるのが難しい本を選びます。

 本当に好きなことを仕事にしている人が、自分が大事に思う本を紹介してくれる、売ってくれる。
 
 子どもたちにとっても、なんてすばらしい本屋さん、図書館になることでしょう!

 そんな店なら、商品だけでなく店主の感性も魅力に加わり、きっと大繁盛するのではないでしょうか。

 大繁盛までいかなくても、きっとお店と波長が合う良質な固定客は増えることでしょう。

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 こんなことを考えたのは、土曜日に行った「せんだいメディアテーク」の売店でいっぱい本を買ってしまったからです。

 仲間と二人で行ったんですが、二人合わせて十冊は買いました。(中に孫向けの絵本なんかも入っていますが)

 そんなに広くない書籍コーナーに、普通の本屋さんではあまり置いていない本や雑誌、それもとても魅力的なものばかり置いてあるのです。

 この施設のコンセプトと同期して、どなたかがよく厳選して品ぞろえをしていることがよ〜くわかります。

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 ですから、この本屋(売店コーナー)さんには「顔」があるんですね。

 特に建築デザイン系、美術系、地元学系、若者に芽生えつつある新しい社会論系が多いようです。

 新しい社会論系にはブログでも紹介している西村桂哲さんや坂口恭平さん、内田樹さんなどの著作が数種類づつ厳選されて並んでいました。

 さらに、あまり聞いたことがない出版社の本が多いのも特徴でした。

 たとえば「漱石」の文庫でも、聞いたことのない出版社のものを置いてあり、それは老舗文庫と編集を変えているのでとても新鮮に感じるのです。

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 この日は「ちいさな出版市」という企画もやっていて、手作りの本や超小部数の本が、作者本人も売り子となって販売されていました。

 なるほど、コピーしてホッチキスで止めるだけでも、こうして「本」として流通できるんだな〜と気づかされました。

 その市で私も数冊買いました。
 

 写真の『骨折映画館』というのはタイトルがとてもおもしろかったので、思わず買ってしまいました。

 B5コピー用紙を二つ折りにして背をのり付けしただけの本ですが、それで十分!

『骨折映画館』

<四十代で始める映画鑑賞>

 円盤の店主タグチが、'11年の夏祭りライブで骨折し、店をほぼ一ヶ月半休んでいた間、動けないのをいいことに、今までまったく観てこなかった映画の世界に没頭。

 一切の情報を仕入れずに、ノーガード状態で観た日本映画150本の感想を、映画マニアのコバヤシさんに送りつけ毎日やりとりした往復書簡。「映画に知識は無用。そのまま物語として観ればよい!」のすすめ。


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 さて、私から「本」への応援歌です。

 このブログを書くようになってからあれこれ自分の行動というか習慣が変わりました。

 それは、少しでも興味を感じた本はすぐ買うこと、本を読んだ後にそのエッセンスを必ず自分に残すこと。

 本代が高い?それは全然ちがいます。

 外飲み1−2回分で何冊の本が買えるものか、試してみるとよ〜くわかります。

 なにせ代行車代もかからないし、思いのほかたくさん買えますよ!

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 それと最近特に思うのは、ネットの情報なんて本の情報と比べたら子どもと大人の違いだ、ということです。

 そのように感じている人もきっと多いと思います。

 少し詳しく調べようとしたら、ネット上の記事なんか数が多いばっかしで、レベルは皆同じ。

 あらゆる分野において、少し深めたいと思うときにはまったく役に立ちません。

 結局、「本来の知」を支えているのは「本」であるということは全然変わっていません。

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 世の中もネットやらに「ヨイショ」のしすぎです。

 知識人と称する人たちが「これからはネットの時代だ、ネットの可能性はすごい!何でもネットにある」とか宣伝しまくっています。

 それが若い人たちに弊害を生じさせていると思います。

 つまり「ネットしか見ない」「ネットにすべてがあると思っている」そういう人が増えて、「(良い)本」と接する機会が年々減っているように思えるのです。

 その結果、薄っぺらな「知もどき」を知識と誤解している人間が増えつつあるように思えるのです。

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 そもそもネットの効用を宣伝しまくる知識人たちは、今まで、そして今でも、読書で自らの知性を養ってきた人たちです。

 ネットだけで育った人種とは違うわけです。そこを知らないとだまされたことになると思います。

 ネットだけで知識を養う人たちは、たとえれば自然の食品、つまり食品の本物の味を知らずに、化学調味料だらけのコンビニ系食品しか食べない人たちといえるでしょう。

 グルメと勘違いして、化学調味料の味加減を自慢げに披歴しあっているとしたら世も末です。

 同じようなことが「本」と「ネット」の関係にも当てはまるような気がするのです。

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 かく言うこのブログだって、やはりネットならではの「薄っぺらさ」に助けられている面もあります。

 あるいは抜け出せないというべきか。(長いもの、深いものは書けない、書いても読まれないという暗黙の制限があります)

 もっともっと修業して、方法を模索して「本」になりうるような題材、内容、技術を習得するようにしなければと思います。

 そうでないと「デッサン」ばっかしで「本画」を書かない、書けない人間で終わっちゃいそうだな〜と。

 ここで言う「本画」とは「本」だけとは限らず「リアルの実践」でもあることでしょう。

 なにせ世界自体が「一冊の本」であるはずですから。

  →世界は一冊の本

 今日の話は、私自身も「自戒」にしていかねばなりません。