ジキル博士とハイド氏

 『宝島』の著者スチーブンソンが19世紀後半に執筆した、言わずと知れた怪奇犯罪小説の古典です。現代の世の中もジキル世界とハイド世界が表裏一体のような気がして。。。

 政治の世界で、多くの人がうすうす変だな〜と感じていることがあります。

 そのひとつは「どうして自主憲法とか自主独立を声高に叫ぶ人(政党)ほど親米一筋なのだろう?」

 もうひとつは「国粋的な人(政党)が、なぜかくもグローバル化に熱心なんだろう?」

 表の顔(建前)と裏の顔(本音)は、想像以上に正反対なのでは?と強く感じた記事がありますので紹介します。

朝日新聞 2013.5.15
「わたしの紙面批評」より

朝日新聞紙面審議会委員・中島岳志さん
(北海道大学大学院法学研究科准教授。専門は南アジア地域研究、日本思想史。2005年「中村屋のボース」で大佛次郎論壇賞。)

<自民改憲案、構造を注視して>

 ・・・一方、読んでいて疑問が湧いたのは、大野博人論説主幹の座標軸「民主主義のページ 開くには」(3日1面)だった。大野氏はヨーロッパ諸国の憲法改正を取り上げ、それが主権の一部を欧州連合(EU)に譲り渡すための改正であると指摘し、主権回復のための自主憲法制定という議論を牽制(けんせい)する。そして、国家主権を相対化し、グローバル化に適応するための改憲なら、「ためらう理由はない」と主張する。

 大野氏の議論は自民党の改憲論を批判しているように見えるが、実は無自覚のうちに安倍政権の方向性を強く後押ししている。新自由主義政党と化した自民党は、グローバル化に熱心だ。TPP参加問題では、日本の食品安全規制が、アメリカの低い基準に引き下げられる可能性が指摘される。自民党は既に主権の外部化と、グローバルスタンダードの内部化を進めている。この動きと連動するのが、憲法改正の要求だ。

 グローバリズムを主導し、国民国家の弱体化を進める人たちは、愛国心を煽(あお)る傾向にある。国内における格差が拡大すると、国民の階層的分断が進行する。この不平等の不満を埋めてくれるのがナショナリズムだからだ。ここに国家主権を外部化する人間が、「自主憲法による主権回復」という愛国心を唱導する逆説が生まれる。

 国民国家が解体されて困るのはだれか。それは国内の低所得者であり、弱者である。国家の再配分機能は低下し、規制緩和によって安い商品と労働力が流入する。勝ち組と負け組の分断は極端化するばかりで、国内情勢も不安定化する。だから、「公の秩序」を乱すような集会・結社・表現の自由は制限しなければならない。治安維持権力の強化によって、安全・安心を保たなければならない。これが自民党の改憲案の道筋である。朝日新聞は、この構造に注意深くあってほしい。
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 「自主憲法制定」という民族の誇りを燃え上げさせるお題目の真の目的が、新自由主義、グローバル化による「負」の結果を抑制するためであるというのです。

 これがほんとうなら、なんと先をよく見通した「逆転発想の戦略」であることでしょう!

 つまるところ「アメリカン・ローマ帝国」アジア属州の長として君臨したい(それしか生きる道がない)、というのが「自主独立」の意味なのでしょうか?

 国防軍は帝国軍の補完として、基本的人権の制限は国内反乱を抑えるためのようです。

 これとは逆に思っていませんか?皆さん。

 内田樹さんも同じようなことを書いていました。

「日本の現在地」より 内田樹

 ・・・私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。

 現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」としてアメリカの超富裕層からこれからもつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。

 今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。

 よいニュースを伝えるのを忘れていた。

 この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。
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 一番悩ましいのは、「かといって投票すべきと思う政党もないしな〜」ということです。。。

 たとえどんな政党が政権を担っても、この流れに逆らうことはできないでしょうし。(ただし遅らせたりすることはできるでしょう)

 「政治」というものには、独自の極性をもった強い磁力が存在します。

 どんな政治家もしょせんその磁力に抗えず「ダース・ベイダー」になっていきます。

 政治が大きく変わるとすれば、それは「政治」自らの力で変わるのではなく、自然の変化や災害、戦争など外部要因によって、不可避的に変わらざるを得なくなったときだけです。

 今や「新たな社会」のかたちは、政治以外のところから、政治の影響をできるだけ受けないものとして産みだされ、広まっていくしかないと私は思っています。
 積極的な意味で。

 こちらもびっくりです! →日本の核武装と世界の多極化