論争するの、キライです

 今や論争のテーマには事欠かない時代となりました。原発、憲法、TPP、秘密保護法。。。社会のあり方を大きく変えそうな深刻テーマだらけです。
 あまりに想いが強すぎると、言葉が詰まって何にも言えなくなります。

 それが恋愛とかなら、苦しいとはいえ、いつかは自分の糧になっていくものでしょう。

 ところが原発だ、軍隊だという経済や政治のテーマだと、論争の必要性は認めても、実に実に気が重くなってきます。

 なぜかと言えば、イケイケドンドン派には強弁者が多くて。。。

 そんな方々と会って話をするのは(聞くのも)生理的にとても苦手です。

 どうしても、勝ちか負けかの二者択一デジタル種族に、多様性重視のアナログ種族はかないません。

 ということで、こんなブログで遠回りにあれこれ自分の考えを表し慰めているわけです。

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 偶然、内田樹さんの3年前のブログに遭遇しました。

 これほど賢明かつ論理的な方はいないと思っていましたが、ブログを読んで「へ〜〜!」と思いました。

 賢者、内田さんにして論争は大嫌いっていうんです。

 あ〜〜、いったいこの世には「論争」に替わりうるどのような方法があるのでしょうか?

 (以下内田樹さんのブログより引用いたしましたが、読みやすいように小見出しをつけました。)

内田樹の研究室 2010.4,7

「論争するの、キライです」

 ・・・このところ政治がらみの取材やインタビューが続く。某月刊誌で、某超有名政治評論家との対談をオッファーされるが、お断りする。

 そのような本筋のメディアで、専門家相手に語るような知見を私は有しておらないからである。

 私が源ちゃんとおしゃべりしているのは、あくまで素人の「床屋政談」を楽しんでいるのである。

 むしろ、政治学や政治史の専門家が読んだら、「こめかみに青筋を立てて激怒する」ようなことだけを選択的にしゃべっている。

 だから、理の当然として、そのような方々と会ってしゃべったら、先方は「こめかみに青筋を立てて激怒する」に決まっている。

 そちらも当然不愉快であるし、私も「素人が何をほざくか。口を噤んで黙っておれ」と一喝されれば気分が悪い。

 両者ともあまり楽しくない。

 だから、お断りするのである。

ハブとマングースのどづきあい

 そもそもこの手の対談の企画というのは、どういう視点から構想しているのか、よくわからないことが多い。

 「談論風発、話がどっと盛り上がり・・・」という視点からではなく、「ハブとマングースのどづきあい」というようなものを期待して企画しているケースも散見される(どころではない)。

 これは対談会場で「襟首つかみ合っての乱闘」ということになると、両名の本が売れ、場外乱闘となって相互に罵倒するところまで持ち込めば、週刊誌月刊誌がおもしろおかしく煽り立て・・・という、メディアの営業上たいへん「おいしい」展開になることが予測されるからである。

 ビジネスマインド的には、「論争を仕込む」というのは「あり」である。

剣呑なものには近づかない

 けれども、つねづね申し上げているように、人文系の領域での論争というのは、最終的には脊髄反射的な揚げ足取り能力と性格の悪さで決する。

 私はこれまでいくつかの論争を読者として見てきたが、論争の勝者から学んだ知見はあまり多くない(というか、ほとんどない)。

 むしろ「論争で勝つ側の人間は、別のかたちで何かを、それも論争の勝利で得たよりも多く失う」ということを学んだように思う。

 だから、そういう剣呑なものには近づかないことにしている。

批判して上達するのか?

 以前、他人の技を批判してはいけない、と多田先生に教えていただいた。

 どうして他人の技を批判してはいけないのですか、と先生にお訊ねしたら、先生は「他人の技を批判しても、自分の技がうまくなるわけではないからだ」と答えられた。

 そして、「批判して上達するなら、俺だって一日中他人の技を批判してるよ」と破顔一笑されたのである。

 けだし武人の風儀というべきであろう。

家に帰ってしまった人

 あるとき橋本治さんが、ある高名なフェミニストが対談したことがあった。

 はじめて会って、しばらく歓談して、では収録をというときになったら、橋本さんの姿がなかった。

 家に帰ってしまったのである。

 「ああ、この人とは、話すことが何もない」と思ったからだそうである。

 これもまた士大夫の風儀と言うべきであろう。

  →「論争するの、キライです」全文

 政治はなにゆえ右寄りに、好戦的な方向になっていくのでしょうか?

 答えは簡単です(と私は思います)。

 右寄りの方、好戦的な方が勝負(論争)に強いからです。

 その論法は、何事にも「1」か「0」かをせまり脅迫するサバイバル論法です。

 論争のもう一方アナログ派は、負け惜しみの独り言を吐き捨てるだけです。

 「無学者議論に負けず、三十六計逃げるに如かず、君子危うきに近寄らずさ、ちぇっ!!」

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 ですから、少しでもまともな世界にしていくためには、内田さんと同じように強弁論争を避け、別の土俵を作っていかなければなりません。

 実に難しいことです。。。

 たぶん「論争」に替わりうるのは「感性の共感」しかないのでは、と思っています。

 そこで問いかけることは、きっとつぎのような問いかけでしょう。

 「それは善いこと?」「それは美しいこと?」「それは楽しいこと?」

 サバイバル言葉の罠(論争)にはまらないよう気をつけていきましょう、地球と生命のために。