市民が銃を持つわけ

 アメリカでは銃規制がなかなか進まないようです。奥深いところにその「理由(わけ)」があるようです。しかも思いがけないところに。
 今朝の新聞にはこんなことが書かれていました。

朝日新聞「天声人語」 2013.10.2

 ずいぶん以前、ワシントンで議会などの見学ツアーに参加した。案内役が最初に「米国では連邦政府は必要悪と考えられている」と言ったので驚いた。お上意識の残る日本とは違うな、と▼当時は米国史の知識がなく、英国からの独立に貢献したトマス・ペインの有名な言葉も知らなかった。〈政府はたとえ最上の状態においてもやむをえない悪にすぎない〉(『コモン・センス』)。自由の国アメリカの中央権力は最小限であるべし。今も少なからぬ国民の思想なのだろう▼例えば銃を持つ権利に強くこだわる人々はその嫡流(ちゃくりゅう)だろう。政府がわがまま勝手をするなら武装市民がいつでも立ち上がるという論理にもなる。・・・

 先住民インディアンから国土を銃で奪いとった歴史を持つ国アメリカです。

 強大な暴力こそ自らの原点、それは住民においても同じで、己の敵に対しては己で守るという思想が銃を肯定する理由と思っていました。

 まさか(お上である)政府に対して革命権を保持するために銃を持つとは、日本人ゆえに想像しがたいことです。

 もちろん物騒この上ないので、権利のために銃規制をしないということには賛成しかねますが、基本思想には共感します。

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 今日本では、憲法変更に向けたシナリオが着々と進められています。
 
 バブル的な経済諸政策も、現政権では憲法変更のための手段と考えていることでしょう。

 その考え方の根本は「大日本帝国」に限りなく戻すというものです。

 それは「国民」の上に「国家(お上)」を(もう一度)奉るという思想です。

 はたしてそれでいいのでしょうか?

 皮肉なことに、現政権にとっての「親分」アメリカの思想は全く正反対です。

 一度、私たちもその違いについて考えてみるべきではないでしょうか?

 以前当ブログに引用した記事より、今日の天声人語に関係する部分を再掲したいと思います。

アメリカの憲法は革命の権利を認めている

 アメリカの憲法修正第二条には「人民が武器を保有しまた携帯する権利を侵してはならない」とあります。この憲法が守っているのは護身用の拳銃の携行の権利などではなく、自由を脅かす圧政にゲリラ戦で抵抗する権利、つまり革命を起こす権利であるそうです。

憲法は国家権力が守るべき法律

 憲法とは国家と国民の契約であって、国家権力が守るべき法律であるとされています。具体的には国民の自由と権利を守るために憲法があるとされています。国を愛する義務を国民に課すというのはその意味から適切とは言い難い面があります。

 その意味から同様に、国旗・国歌の強制も適切とは言いがたいようです。アメリカでは「星条旗を焼く行為を罰すること」が憲法違反と判決されたそうです。

守るべき「国」とは何か

 「国」というのは具体的に何を指しているかです。「国土」「国民」あるいは「国家体制」または「国家という概念」「国体」?私たちに命さえ捨てよとさせるのはこのどれなのでしょう?

 国家権力を掌握している人間の利益を守るために、国民が命を捨てねばならないような国があるとしたら、先に死ぬべきは国民より国家の方であると言う人もいます。

「現実的」とは「理想」を否定することか

 「現実的」とは、現実に迎合して考えるということでしょうか?理想なき現実はどこを見て進むのでしょうか?「理想」こそ憲法の根本要素であると私は思います。

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 以上『9条どうでしょう』(ちくま文庫:内田樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩共著)から、ピックアップして編集しました。


 君が代を歌っているか先生方の口元をチェックするなどということは、たぶんアメリカでは(たぶんヨーロッパの多くの国でも)信じられないことでしょう。