「共感する力」より

 古い手帳をながめていたら、こんな書き込みに出会いました。野田正彰著『共感する力』からの抜粋でした。

 「今日のおかずは何にしよう?」、私の場合は「今日のブログは何にしよう?」

 どうにもネタが浮かんでこない日もあります。

 でも毎日のご飯作りと同じように日々続けようと決心していますので絶食はできません。

 おかずのネタ探しならスーパーを一廻り。

 同じようにブログのネタ探しなら?と思って古い手帳を開いてみたら偶然出会ったのがこの書き込みでした。

 何か縁があるのかもしれません。

2004.3.11 野田正彰『共感する力』より

 殺人手段について想像する前に、人は他者の命よりも何かの目的がより価値があると思考する。

 彼の命よりも自分の名誉、怒り、カネがより価値があると思い込む。

 たとえばドスエフスキーの『罪と罰』では、選ばれた強者は、人類のために社会の道徳を踏み越える権利を持つとし、金貸しの老婆をしらみとみなして殺す。

 今日の少年犯罪にも、オウム真理教による「ポア」殺人にも、生きるに値しない命は消してもよいという思い込みがある。

 だが、他者の命より価値が高い何らかの目的がそんなに簡単に見つかるはずがない。

 オウム真理教のように見つけたと主張する者は、そこに至る前に強い空虚感を抱いている。

 多くの少年犯罪では、生きる目的も求められないまま集団への適応だけに生きてきた未熟な少年が漠然とした空虚感を一気に飛躍させるために殺人を行っている。

 <オウム真理教の新見被告の言>

 「グル(教祖)の指示であれば人を殺すことに喜びを感じることができるのが、私の理想の境地である」
  
 「一殺多生。殺された者は最大多数の幸福のためのやむを得ぬ犠牲である」

 書き込みをタイプしながら考えてしまいます。

 今や少年犯罪など日常茶飯事になり、まるで感覚が麻痺してしまったような私たち。

 グルに帰依する代わりに「強さ」「誇り」を高らかに謳う権力者に帰依したがる私たち。

 「一殺多生。殺された者は最大多数の幸福のためのやむを得ぬ犠牲である」この言葉どおりにしかならない、できないこの社会。

 怖いのは「だからしょうがないでしょう」と開き直り思考停止しようとする私たち。

 10年前と変わらない、いやもっともっと無意識の劣化が進んでしまったような今この社会。

 現代の「グル」は「原発」や「強権的政治家(政治思想)」に面を変え、脈々と信徒を増やし続けているようです。