『北の国から』のファンはきっと多いと思います。その原作者が渾身の思いで放つ言葉もそのドラマとまったく同じ感性からです。
倉本聰さんの『ヒトに問う』再びです。
不動明王のようなすさまじき(真摯な)念いを感じさせる倉本聰さんの著書です。
「もう忘れたい」「もっと明かるい話題を!」「どうせ。。。」
私の心にもこんな言葉がもう忍び込んでいます。
大切な言葉や文章に出会ったとき一瞬ハッとさせられるのですが、残念ながら長くは続きません。
それを書き留めておかなければ虹のようにすぐ消えてしまいます。
だから、大切な言葉、かけがえのない言葉を遺していくことが大事なんだ、と私の心が叫びます。
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倉本聰さんはこの章を書きながら、自らの眼前に総理がいて、彼と対峙していたに違いありません。
しかもその場所は、彼のホームグラウンドにして私たちの運命の裁判所「国会」でした。
多分国会の質疑とは、あらかじめこうこうこういうことを聞きますよという質問計画が提出され、それに対して質問を受ける大臣、側近、官僚等々が夜を徹して回答を作成し、それらを元にした質疑応答がシナリオのあるドラマのように空々しく議事堂で演じられるのであろう。
多少の小さな改変はあっても凡その大要はそんなものであり、その間に失言や放言がはさまると、あたかもそれこそ求めていたものだと云はんばかりに、議場俄かに活気づき居眠りしていた議員まで突如目をさまし騒ぎ出す。それぞ国会だ、という気がしている。
ここにもし一人の、純粋にして果敢な議員がいて、問責決議などものともせず、質問予定稿を全て無視して、いわば議会の慣例を打ち破り、根底的質問を総理大臣にぶつけたとする。
それはたとえばこんなものである。
北の国からの田中邦衛のごとく、あるいは山田洋次監督の寅さんのごとく、自分が単純善良素朴な一庶民になりきって倉本さんは総理に問い質します。
愚直すぎる、しかし強烈な質問はまずこれからです。
「総理に素朴な質問をいたします。是非正直率直に、総理大臣の立場を離れ、政治家としての立場も離れ、日本人としての立場も離れ、人間として、一個のヒトとしてウソでない答を答えていたゞきたくお願い敦します。
一ツ。あなたは何によって生きていらっしやいますか、金ですか、平和ですか、安全ですか、それとも空気ですか、水ですか、食料ですか。
ア、後の方と相談せずにあなた個人の意見を仰云って下さい。
次は、苦痛、恐怖を免れ得ない「生身のヒト」としての本音を正直に答えてくれ、とせまります。
二番目の質問。
あなたは誰の為なら死ねますか。
国ですか、選挙民ですか、隣人ですか、友人ですか、それとも両親、妻子、孫たち即ち家族の為なら死ねますか。
或いは自分の見栄、誇り、そういったことの為なら死ねますか。
ア、この答を出す前に、死ぬということの現実の痛み、苦しさ、怖ろしさを、時間かけて良いですから充分リアルに想像して、その上で慎重に答えて下さいね。
ちなみに、死という現実には色んなケースがございまして、溺死、圧死、窒息死、焼死、拷問死、戦死、自死、凍死、餓死、等々、いずれも相当の恐怖、苦痛を伴うものであることを御想像、再認識していたゞきたいと思います。
最後の質問は人類の未来に対する責任について果たして考えているのかを質します。
制限時間を限られておりますので、最後の、三番目の質問を致します。
我々の乗っているこの地球は、今後どの位続くと、いや、人類は今後どの位存続すると思っておいででしょうか。
そして人類が滅びるとしたら、それは自然現象によるとお考えですか。
それともヒトの犯した何らかの過ちによると思われますか。
以上三点につき、総理の、ヒトとしての真撃なお答えをいたゞきたいと思います。
倉本さんは政治家だけでなく、私たち一人一人に対しても顔を(悲しげに)向け語りかけます。
こういう根源的質問が国会の場で出ないのが残念である。
この夏の参院選でも判るように多くの日本人の考えが、景気とか株価とか増税とか目先のことばかりに行ってしまい、明日のこと、十年先のこと百年先のこと未来のことは思考の範囲外であるという、何とも情けない状況にたち至ってしまった。
・・・我らの乗っている宇宙船地球号が、そうした危機にさらされているのに、それを真剣に考えようともせず、それらの問題は有識者と名乗る御用専門馬鹿たちに任せて、国政の中心に鎮座するものはひたすら経済や金融や株価、それこそが国民の望むものだと、とんでもない錯覚と過ちの中にいる。
そして、選挙民、即ち国民そのものが、催眠術にかかったかの如くに同じ思考の流れの中にいる。
この国はもはや先人たちの築いた精神も魂も哲学も倫理も、ものの見事に捨て去ってしまったのか。
私もつくづく思います。どこが何が「誇りある国」「美しい国」なのか?
著書のタイトルには深い意味がありました。
このシリーズのタイトルを「人に問う」とせず「ヒトに問う」とした。
何故人でなくヒトなのかと、何人もの人に質問され、その都度僕はこう答えてきた。
この間いを僕は、地位とか立場とか身分とかしがらみとか、個人の事情とか組織の事情とか、貧富とか思想とか職業とか利害とか、更に云うなら民族とか国家とか、そうしたあらゆる束縛を排除した、地球の上の何億という命の中の微小な存在としての人類というヒト。
その一人としての 「あなた」 に対して真剣に考えて欲しいと思い、ヒトという片仮名を使ったのです、と。
僕らは偉くなりすぎてしまった。
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年末年始のこれから、忘年会、新年会、同期会など、友人やら同級生やら地元経済界政界の方々やらと呑む機会が数多くあります。
その中には、電力会社勤務もいれば、原発メーカー勤務もいる、さらにはガチガチの効率教信者や国士無双もいます。
会社人として荒波にもまれ頭角を現したやつほど我が強いものです。
あるいは大きな会社と自分を同一化してしまったやつもいます。
酒の弾みで本音をぶつけ合うことになったら喧嘩になりそうで、実は内心自分を怖がっています。
経験上、喧嘩しようが論争しようが、お互いに絶対に説得することなどできないことはよ〜く知っています。
原発のことだって、政治のことだって、科学信仰のことだって。
理屈以前の感性の原点がちがうので、論争などはしこりを残すだけでますます意固地になるだけです。
ヒトがわかり合えるのはまったく思いもかけぬ別なことからでしょう。
それが何であるかは一生の課題でもあります。
ですから倉本聰さんの『ヒトに問う』は、私にとっては『オノレに問う』という本でもあるのです。
(あ〜あ〜〜、またカタニガブログを書いてしまったな〜。なにせ最近は「ヒト」にとって切実すぎる問題が多すぎるので。。。)