見守り社会と監視社会

 数日前「社会福祉協議会」から老父の件で電話が来ました。「そっと見廻隊」(私の勝手な命名)の登録者更新についてでした。

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そっと見廻隊

 いつ登録したものやら、「そっと見廻隊」に登録しておいた方のほうがすでに亡くなっていました。

 他に私の知らない方も二名登録されていたようですが、一人はどうも地区の区長さんのようでした。

 電話をかけてくれた女性が最後にこの制度についてこう話してくれました。

 「國雄様(父)をこれらの方々が、日々さりげなくそっと見守っております」

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相棒の母上

 その一週間くらい前の土曜日、相棒のデザイン事務所を訪ねました。

 相棒は、東京にいる兄弟(次男)となにやら電話しています。

 ひとり暮らしの母親に兄弟が時間を変えて毎日電話し、安否を確認しているらしいのですが、その日は途中で切れてその後つながらないらしい。

 兄弟が互いに心配して「どうしたんだろう?」と電話で話し合っていたのでした。

 何度も母親にかけ直しながら、私とあれこれ話しました。

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みまもりホットライン

 私も同じ事情ですからよくわかります。

 こんな会話が続きました。

 私「うちでは象印の『みまもりホットライン』を使ってて便利だぞ。ポットの使用状況がメールで送られてくるが、東京の姉と時間帯をずらして確認しているよ」

 「でも、リアルタイムじゃないから限界あるわな」

 「そうそう、うちもネットワークカメラ付けようかと思ったんだが、母が監視されているようでいやだというのでやめたよ。象印のそれっていいな」

 「ヤクルトやさんとか、コンビニとか農協とかでも、配達がてらのみまもりサービスをしてるんじゃないかな?」

 私の帰り道方面だから、私が見てきてあげようと言ったとたんに彼の母から電話が入りました。

 皮膚科に行ってて電話ができなかったようでした。

 まずはヤレヤレ。。。

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カメラと人の目

 さて、世は監視カメラ氾濫の時代です。

 イギリスなんかは犯罪防止のために大いに活用しているようで、街にはいたるところ何百台も設置されているらしい。

 機械だけかといえばさにあらず。

 昔の田舎ほどの監視社会は他にない、と誰かが言ってました。

 親しい村のお付き合いも見方を変えれば、たしかに人の目による監視社会なのかもしれません。

 そういう社会がいやで都会へ出た行ったというのは私たち世代も同じです。

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一方的か双方向的か

 しかし、機械の監視と人の監視?はまったく別なものと考えることもできます。

 機械による監視は「一方的」です。

 人による見守りは「双方向的」です。

 つまり「見る人」「見られる人」が一体となっている関係が人の社会です。

 それは昔の地域社会の商売がそれぞれ「買い手」であり「売り手」であったというのと同じです。

 顔を互いに確認できる対等関係であったということです。

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鳥の目、虫の眼

 もうひとつ大事な相違点があります。

 機械で監視するということは、まるで「鳥の目」のように上から自由にすべてを見るという感覚につながります。

 反対に人の目で見守るというのは「虫の目」です。

 対象と同じ視点で実に狭い範囲を見ることしかできず、それゆえ対象の感情さえも見えてきます。

 ここに「監視」と「見守り」という二つの言葉が分かたれる理由があるのではないでしょうか。

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ファーストクラス症候群

 監視される側でもある私たちがなぜ監視カメラ社会をためらわないか、ということを考えるのは重要なことと思います。

 私はその背景に「ネット社会」の影響があると思います。

 今や、老若男女、人種や職種、貧富を問わずインターネットを駆使できる時代となりました。

 この時代、多くの人が「神になったかのような鳥の目」で世界を見、理解しているという錯覚です。

 ほとんどの人が監視カメラで見られる側ではなく、見る側にいるという錯覚を持ち始めているのだと思います。

 権力への関心こそが(深層の)心性である政治家と同じ感覚にあるのです。

 これは最近の右傾化とも少なからず関わりがあることでしょう。

 ある精神医学者でもある作家は、この現象をかつて「ファーストクラス症候群」となづけました。

 それは現代科学の粋、飛行機のファーストクラスに座り、高級ワインを飲みながら、まるで鳥が地上を眺めるように、地べたで暮らす人々の為すあれこれを、まるで他人事のように傍観し批評する病気のことです。

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必読の『1984年』

 はたしてカメラによる監視社会は私たちにとって善きものかどうか?

 それを知るためにこそさまざまな小説があります。

 ジョージ・オーウェル『1984年』は今の時代必読のような気がします。

 政治が監視社会をより志向したとき、どのような社会となっていくのか、ということをリアルに想像させてくれます。

 自分たちが監視する側にいるという錯覚が消えたとき、いったい何が見えるのでしょうか。

 読書というのは未来を垣間見るための大事な経験です。(もしかしたら唯一の)

  『1984年』のブログ→言葉の大切さ

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「監視」から「見守り」へ

 今、グローバリズムやナショナリズムの流れとは別に、新たな地域社会やコミュニティーを志向する方々も増えてきています。

 それは全世界的な傾向でもあります。

 私もとても関心があります。

 かつて田舎に存在した「ムラ社会」は都市部に移行したようです。

 官僚社会や特権的会社、学閥。。。

 なにもなくなった田舎ですが、逆に「新たな地域社会」の準備が整ったといえるのかもしれません。

 そこには機械の目による「監視」ではなく、人の目による「見守り」がなくてはならいことでしょう。

 そういう社会ではITもその目的がこう変わることでしょう。

 「ITは強者の剣となるよりも弱者の杖となるべし」