達磨大師と引きこもり

 達磨大師も引きこもりの若者も、狭いところに閉じこもるのは同じ。でも目指したことは正反対という話です。
 岩波ジュニア新書『哲学のことば』を拾い読みしていたら、興味深い比較に出会いました。

 最後の文章が熱いです。

 (読みやすいように小見出しを付けました)

見た目はそっくりさん

 ・・・達磨大師という人がいました。

 彼は面壁九年で悟りを開いたのです。

 面壁というのは、じつと一人きりで、壁だけ見つめて、座っているということです。

 それを九年間も行なっていたのです。

 目がくらみそうな話です。

 でも、十年間以上、家の中の自室に閉じこもって、親にさえ顔を見せたことがないなどという、引きこもりの若者の話を近ごろよく聞きます。

 彼らと達磨大師との違いはどこにあるのでしょうか。

 一人で狭い場所に引きこもっている、しかも長い年月。

 ここまでは一緒です。

 若者には家族が食事を差し入れていたでしょうが、それなら、大師にも弟子が食事を運んでいたはずです。

 外から見たところ変わらないのです。

 達磨大師といわゆるオタクが似ているとは思いがけない比較です。

 でも達磨大師が修行中の頃であれば、たしかに見分けが付かなかったことでしょう。

 お釈迦様だってそう。修行中は乞食と見分けが付かなかったに違いありません。

 さて、達磨大師と引きこもりの違いは?

決定的な違い

 決定的な違いは、引きこもっている理由にあるのです。

 若者が外に行かなくなってしまうのは、自分が壊されるのが怖いからです。

 究極の自己保存として、ヤドカリのように、殻に入って戸を閉めてしまったのです。

 達磨大師は、もちろん違います。 むしろ、逆です。

 自己保存ではなく、そのように自己に執着することから自由になることを目指したのです。

 だから、九年目に、おのずから自己への執着を脱ぎ捨て、悟りに到達できたのでした。

 逃避か、挑戦か、自己執着か、執着からの脱却か。

 ところで筆者は自己保存への執着を悪いこととは言っていません。

 逆に自己保存欲こそが人類の繁栄につながったのだと肯定しています。

 しかし、それに背を向け羽ばたくことこそが私たちに「深い喜び」を与えてくれるのだと筆者は最後に言います。

 その喜びの原動力とは?

恋こそ原動力

 普通の人間である私たちはもちろん、達磨大師の真似などできません。

 でも、いまの自己にしがみついていることから少しでも離れたいと思ったら、自分から、自分の部屋から出ることしかないでしょう。

 危険は承知で、そして、危険であっても、出て行かなくてはなりません。

 もちろん、普通にはそんなことはできません。

 自己保存の執念こそ、人間にこの繁栄をもたらしたのです。

 でも、繁栄に背を向けてでも、だから危険を冒しても、もう少しだけ広い場所に行きたいと促すものがあるとすれば、それは恋しかないのです。

 恋こそ、私を広げ、私を完成へと向かわせ、その結果、私に深い喜びを教えてくれる原動力なのです。

 哲学の話、しかも禁欲の権化ともいえる達磨大師の話が「恋」に収斂していくとは。。。

 しかし今回のテーマとは反対に、「哲学」と「恋」は見かけは違っても中身は同じものかもしれません。

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 20世紀の偉大な哲学者バートランド・ラッセルは生涯4度結婚し、最後の結婚は80歳だったらしいです。

 (いったい何を食べるとこんなに盛りが付くんでしょうか?)

 情熱家ゆえでしょうか、彼の大著『西洋哲学史』には、哲学とは無縁に感じる恋愛詩人「バイロン」の章がもうけられています。

 ラッセルにとっては「恋愛」も「哲学」の範疇だったようで、そこが人間的で実に魅力的です。

 そういえばフィロソフィーは「知を愛する」という意味らしいですから、哲学と恋愛は根っこで繋がっているに違いありません。

 「汝、異性を愛せ、人を愛せ、そして知を愛せ」の順番でしょうか。

 ま〜偉大な方々とはエンジンの造りがもともと違うようで、還暦を過ぎた和食系の私にはちょっと無理そうですが。。。(実はホッ。)

 それにしても「哲学」の本で「恋」をかき立てられるなんて(良い意味で)思いもしませんでした。