寺田寅彦「蓄音機」の夢

 連日の猛暑についに耐えきれず、本日わが居場所の座敷にエアコンを取り付けてもらいました。そのせいでしょうか? 猛暑が突然身を隠し久しぶりに涼しい日がやってきました。(エアコンの出番がないなんて。。。)
 虫の声が元気に聞こえるのは気のせいかな〜。

 自然はやはりいいものです。

 人口知能のヨタ話を時々ブログに書いてますが、そのつど未来は自然とともにあってほしいものだとつくづく思います。

 寺田寅彦の短編『蓄音機』にもそんな思いが書かれています。

 彼が生まれる前年1877年(明治10年)に、エジソンの蓄音機の発明が登録されたのだそうです。

 その時代、蓄音機というのは文明開化を象徴するような「夢の機械」だったのでしょう。

 ノーベル賞をもらえるような研究をされた方だそうですが、実にほほえましく温かき人間性を感じさせる一篇です。


ちくま文学の森「機械のある世界」

寺田寅彦「蓄音機」より抜粋
 蓄音機が完成した暁に望み得られることのうちで私が好ましいと思う一つのものは、あらゆる「自然の音」のレコードである。

 たとえば山里の夜明けに聞こえるような鶏犬の声に和する谷川の音、あるいは浜べの夕やみに響く波の音の絶え間をつなぐ船歌の声、そういう種類のものの忠実なるレコードができたとすれば、塵の都に住んで雑事に忙殺されているような人が僅少な時間をさいて心を無垢な自然の境地に遊ばせる事もできようし、長い月日を病床に坤吟する不幸な人々の神経を有害に刺激する事なしに無聯(ぶりょう)を慰め精神的の治療に資する事もできはしまいか。

 こういう種類のレコードこそあらゆるレコードの中で最も無害で有益でそして最も深い内容をもったものではあるまいか。

 もしそういうものができたら、私はそれをあらゆる階級の人にすすめたい。

 為政家が一国の政治を考究する時、社会経済学者がその学説を組み立てる時、教育者がその教案を作製する時、忘れずに少時このレコードの音に耳を傾けてもらいたい。

 あらゆる心と肉の労働者もその労働の余暇にこれらの「自然の音」に親しんでもらいたい。

 そういう些細な事でもその効果は思いのほかに大きいものになることがありはしまいか。

 少なくもそれによって今の世の中がもう少し美しい平和なものになりはしまいか。

 蓄音機に限らずあらゆる文明の利器は人間の便利を目的として作られたものらしい。

 しかし便利と幸福とは必ずしも同義ではない。

 私は将来いつかは文明の利器が便利よりはむしろ人類の精神的幸福を第一の目的として発明され改良される時機が到着する事を望みかつ信ずる。

 その手始めとして格好なものの一つは蓄音機であろう。

 もしこの私の空想が到底実現される見込みがないという事にきまれば私は失望する。

 同時に人類は永遠に幸福の期待を捨てて再びよぎる事なき門をくぐる事になる。

  →悪い頭バンザイ!