人間の理性の限界

 昨日の続きスタニスワフ・レム「天の声」よりの抜粋です。
最後のページに書かれていた文章です。

 だが正直いって、そんなことを書き添えたところでどんな意味があるだろう? あのころいっしょに働いていた同僚たちが、秘かにいだいていた不安や考え、希望について、いったいなにがわかっているのだろうか?

 人間のあいだをへだてている距離を結局のところ私はまったく克服できなかったのだ。動物は五感によって自分が<今いる場所>(ここ)と<今いる時間>(いま)に縛られている。だが人間はそこから離れて回想し、他人に同情を寄せ、彼らがおかれている立場や感情を想像することができる

 ーーしかし幸いなことにそれは偽りである。いくらわれわれがそうしたごまかしの具象化や他人への乗り移りをやってみたところで、ぼんやりとあいまいにしかそれは想像できないのだ。かりに他人の感情を共有することができ、彼らとともに感じ、体感できたところで、いったいどうなるというのだ? 

 人間の悲哀、恐怖、苦悩が個体の死滅と共に消滅し、高揚や失意、性的興奮の絶頂や耐えがたい苦痛が、その痕跡も残さないということは、賞賛に値する進化の賜物である。そしてわれわれが動物に似ているのは、まさにその進化のお陰なのだ。

 もし苦しみ抜いて死んだ不幸な人間がだれもかれも、たとえ一個にせよ感情の原子を残したら、そうやって世代から世代へ引き継がれる遺産がふえていったら、そのちっぽけなかけら一つでも、人間から人間へと浸透していくことができたらーー世界は腸から力づくでむしりとった絶叫で満ちあふれることになったかもしれない。

 かたつむりのように、われわれはだれもが自分の業にしっかりとへばりついている。この私は、数学の保護にわが身をゆだねている。そして、それでも足りないときは、つぎのようなスウイーンバンの詩の最後の一節を繰り返すことにしているのだ。

  怒り、望み、自惚れを捨て、
  渇えと激情から解き放たれ、
  安堵の溜息をもらして祈りをささげる。
  日々の暮らしを終わらせてくれることを、
  死者が決して蘇ることはなく、
  泡で濁った激流が、永遠の海の縁に、
  いつの日かかならず流れこむことを、
  秘かに感謝して。

 彼は、生物としての人間の限界、つまり「人間の理性の限界」について思索してきた作家です。

 最後の作品となった大作「大失敗」では、その人間の理性(の限界)を遠く宇宙の彼方まで拡張し、われわれに顕わにしてくれます。

 「大失敗」は高遠な深い作品です。二度読みましたがいつかこのブログで取り上げてみたいと思います。

 レムについては厭世的と思う方も多いのですが私はその逆に感じています。

 少なくても彼が執筆を続けていた間は。

 そしてその成果としてのすべての作品は。それを示す彼のエッセー「核時代と文学」(1983 朝日新聞への寄稿)から引用します。

レム、小説執筆の終わりを語る

 「わたし個人としては、作家というものは読者に偽りの希望、つまり、作者自身が信じてもいないような希望を与えるべきではなく、自分が心から信じている希望を作品のなかで表現すべきであると思っている。

 ところが、作者がそうした希望をもてなくて、自分が書くものでもって現実から己と読者の目を塞ぐとすれば、その作家は文学の堕落に一役かうことになるのだ。だからといって、政治論文を書かなくてはならないといっているのではない。己の力量と知識に応じて読者に忠告を与え、彼らの希望を支えてやるべきであって、もはや希望など存在しないなどと断言してはならないといっているのだ。

 そういう作家でももちろん読者を本で楽しませることは可能かもしれない。

 だが忠告を与え、考える気を起こさせ、楽しませることもできるのだ。しかし、作者自身が人類は破滅の判決を下されており、状況は絶望的であると思っているのなら筆を折るべきである。それが、従うことができ、そうしている私の個人的な信念である」