宇宙船ビーグル号と似ている今

 小中学校の頃はむさぼるようにSF小説を読みふけったものです。その中でも印象深い一冊が「宇宙船ビーグル号の冒険」でした。遙か外宇宙の探検に出発した宇宙船ビーグル号、科学者と軍人で構成された1000人の乗員、船内は地球の縮図でもありました。

 宇宙船ビーグル号が次々と遭遇する未知の生物や想定外のできごと。
地球の英知を集めた科学者たちは、それぞれの専門科学の優越と権威にこだわり縄張り意識が生じて未知の問題に十分な対応ができない。

 その中にただ一人、後に希望の星となる科学者エリオット・グローブナーがいた。彼は誰も知らない新しい科学「情報総合学(ネクシャリズム)」を学んでいた。賢明なる地球連邦司令官から秘かに乗船を命じられていたのだった。

 はじめは専門科学の権威者たちに無視され侮辱されていたグロブナーだったが、次々起こる難問の解決を通して、やがて皆からの尊敬を集めていくのだった。

 さて、この本を43年ぶりに読み直したのにはわけがあります。
それはまさに現在直面している原発事故の収束についてや、原発についての解釈、今までの歩みについて、このビーグル号における専門科学同士の対立と似ている気がしたからです。

 「情報総合学」というのは自然科学に人文科学が融合した学問のようです。ですから物理学や化学に心理学や歴史学などのファクターも入れてさまざまな現象を解析し解決の道を見いだすというものらしいです。

 小説を読みながら、専門科学の集団とは「原子力村」とか「経済評論家?」とかの集団を想像してしまいます。

 物理学者は原子炉容器の頑丈さだけに関心を持ち、経済評論家たちは目先の景気だけにとらわれれています。

 あらゆる操作に関わる「間違いを犯す人間」という観点が忘れ去られ、さらに全地球的問題よりも目先の経済問題が常に優先してしまう、このような視野の狭い私たちの限界、私たちの学問の限界というものをありありと感じました。

 今、多くの学者たちに、効率だけを信じて科学技術を盲目的に追求するだけという奴隷的な面を感じることがあります。

 人文科学というか人間学なるものを私たちはもっと大事に考えて、すべての科学者がそれらをしっかり学ぼうとすべきではないでしょうか?一生涯にわたることでしょうけれども。また一かゼロかのようにはっきりしないものでしょうけれども。

 そのとき科学者は性能高き人々から能力高き人々に変わり、私たちの幸せにつながる科学技術を生むことができるようになるのではないでしょうか。