パソコンと脱原発

 宮台真司さんという方がこう語っていました。「脱原発」とは単なる電源選択の話ではない。スローフードが食材問題でなく「食の共同体自治」であるように、脱原発も「エネルギーの共同体自治」の問題です。つまり集中管理から分散管理へということですよね。そういえばコンピューターも同じ経緯をたどりました。
 コンピューターもアイビーエムの大型汎用機から個人が使うパソコンへ、さらにインターネットやクラウドの時代へと変わってきました。

 もともとインターネットは一極集中のリスクを分散させるために軍の要請で開発されたものです。それゆえ一般的に、一極集中型から分散型への変化ということには大きな合理性があるといえるでしょう。

 1961年・USAはユタ州で三つの電話中継基地が爆破され、同時にアメリカの国防回線も一時的に完全停止した。この事件でアメリカ国防総省は従来の電話網ではいざという時にはまったく役に立たない事を危惧し、アメリカ空軍創設のRAND戦略研究所が核戦争にも耐えうる通信システムの研究を開始。

 1969年9月、UCLA(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校)にルーターの元祖であるIMP(Interface Message Processor)の一号機を設置。そしてスタンフォード大学、カリフォルニア大学サンタバーバラ校にIMPをそれぞれ設置し同年12月にはユタ大学が回線に接続された。
ここに24時間回線を繋げっぱなしのcomputer・Networkが誕生。 ARPA(国防総省高等研究計画局)のラリー・ロバーツが指揮するこのプロジェクト はARPANETと名づけられインターネットの元となった。

 原発に関しては「金」(経済効率性)か「安全」(倫理性)かの二つの観点で語られることがほとんどです。しかしもう一つの観点があるようです。それはシステムの「進化」(歴史性)という観点です。

 この観点から見れば、エネルギー供給の問題が特別な問題ではなく他のシステムがたどってきたと同様に、今その分岐点を迎えているのではないかという発想が生じます。その発想は、きっと多くの人が理解しやすいことになると思います。対象が広範で皆も経験してきたことだけに。

 このことを書いている内田樹(たつる)さんのブログ「内田樹の研究室」から引用します

「小国寡民のエネルギー政策」

(前略)

それにしても、現役のビジネスマンの口から「もう電気は要らない」という言葉を聞いたのはショックであった。
自分がいかにエネルギー政策について、既存の思考枠組みにとらえられていたのかを思い知らされたからである。
ことの当否や実現可能性や根拠の有無はわきへ置いて、「そういう発想」がなかったおのれの思考の不自由を恥じたのである。

そのあと少し調べているうちに、現在のエネルギー政策がどれほど「時代遅れ」なものであるかがしだいにわかってきた。コンピュータの場合は、IBM的な中央集権型コンピュータシステムから、1970年代にアップルの離散型・ネットワーク型コンピュータ・システムへの「コペルニクス的転回」があった。
あらゆる情報をいったん中枢的なコンピュータに集積し、それを管理者がオンデマンドで商品として配達して、独占的に設定された代価を徴収する。そういう情報処理モデルが時代遅れとなった。今、情報はネットワーク上に非中枢的に置かれて、誰でも「パーソナル」な端末から自由にアップロード・ダウンロードできる。

「中枢型・商品頒布型」モデルから「離散型・非所有型」モデルへの移行、これはひろく私たちの世界の「基本モデル」そのものの転換を意味している。IBMモデルからアップルモデルへの移行は「情報」そのものの根本的な定義変更を含んでいたからだ。

IBMモデルでは情報は「商品」だった。だから、退蔵し、欲望や欠乏を作り出し、価格を操作し、高額で売り抜けるべき「もの」としてやりとりされた。アップルモデルでは情報はもう商品ではない。

それは誰によっても占有されるべきものではなく、値札をつけて売り買いするものでもなくなった。情報はそれが世界の成り立ちと人間のありようについて有用な知見を含んだものである限り、無償で、無条件で、すべての人のアクセスに対して開かれているべきである。

というのが離散型・非中枢型・ネットワーク型のコンピュータモデルの採用した新しい情報概念である。そうした方が、情報を商品として市場で売り買いするよりも、人間たちの世界は住み易いものになる可能性が高いという見通しにイノベーターたちは同意したのである。この基本的趨勢はもう変えることができないだろうと私は思う。

エネルギーもそうなるべきなのだ。それは本来は商品として売り買いされるべきものではなかった。「共同体の存立に不可欠のもの」である以上、電力もまた社会的共通資本として、道路や鉄道や上下水道や通信網と同じように、政治ともビジネスとも関係なく、専門家の専門的判断に基づいてクールにリアルに非情緒的に管理され、そのつどの最先端的なテクノロジーを取り込んで刷新されるべきものだったのである。

けれども、電力を管理したのは実質的には政治家と官僚とビジネスマンたちであった。彼らは「共同体の存立と集団成員の幸福」というものを「自分たちの威信が高まり、権力が強化され、金が儲かる」という条件を満たす範囲内でしか認めなかった。

テクノロジーの進化は、当然電力においても、パーソナルなパワープラントとその自由なネットワーキングを可能にした。環境負荷の少ない、低コストの発電メカニズムの多様で自由なコンビネーションによって、「電気は自分が要るだけ、自分で調達する」という新しいエネルギーコンセプトが採用されるべき時期は熟していたのである。

電力においてもIBMモデルからアップルモデルへの、中枢型から離散型へ、商品から非商品へのシフトが果たされたはずだったのである。それが果たされなかった。旧来のビジネスモデルから受益している人々が既得権益の逸失を嫌ったからである。原発は彼らの「切り札」であった。

国家的なプロジェクトとして、膨大な資金と人員と設備がなければ開発し維持運営できないものに電力を依存するという選択は、コストの問題でも、安全性の問題でもなく、「そうしておけば、離散型・ネットワーク型のエネルギーシステムへのシフトが決して起こらない」から採用されたのである。

もうこの先何も変わらない、変わらせないために、彼らは原発依存のエネルギー政策を採用したのである。人々は忘れているが、原発というのは「イノベーションがもう絶対に起こらないテクノロジー」なのである。原子炉の恐ろしいほどシンプルな設計図からもわかるように、あれは「もう原理的には完成していて、(老朽化と故障と人為的ミスと天変地異とテロが招来するカタストロフ以外には)改善の余地のないメカニズム」なのである。

人々が原発に群がったのは、それが最新のメカニズムだからではなく、「進化の袋小路に入り込んでしまった」メカニズムだったからである。私たちは原発事故でそのことを学んだ。私たちは「最新のテクノロジーの成果を享受している」という偽りのアナウンスメントを聞かされることで、「エネルギー・システムでもまた中枢型から離散型へのシフトがありうる」という(コンピュータを見れば誰でもわかるはずの)ことから眼をそらしてきたのである。

今回の原発事故で「節電」ということを電力会社が言い出したことで、多くの市民は「どうして発電送電を民間事業者が独占していなければいけないのか?」という当たり前の疑問を抱いた。どうして、自家発電してはいけないのか?

サイズも、形式も多様なパワープラントがゆるやかに自由にネットワークしているシステムの方が、単独の事業者がすべてを抱え込んでいるよりも、リスクヘッジ面でもコスト面でもテクノロジーのイノベーション面でも有利ではないのか?

そういう問いを発したときにはじめて、私たちがこの問題についてきわめて不自由な思考を強いられてきたことに気づいたのである。ツイッター上で紹介したように、すでにさまざまの離散型のパワープラントの開発は30年前から(つまりコンピュータにおけるアップル革命の時点から)始まって、技術的にはもう完成している。

その実用化をきびしく阻害しているのは、端的には「古いビジネスモデルから受益している人たち」である。原発事故はこの人々が退場すべきときが来たことを意味している。

原発については、さまざまな意見が語られているが、「モデルそのもの」の刷新についての吟味が必要だということを言い出す人はまだいない。私のような門外漢がこういうことを言わなければいけないという事実そのものが、この論点についての抑圧がどれほど強いものであるかをはしなくも露呈しているのではあるまいか。