発想のヒント

 「発想」はたぶん人間だけの得意技、いかに高性能コンピューターでもかなわないと思います。なので「発想」を鍛えるということは人間的価値を高めるということにつながると思うんです。最近読んだ本から発想法のあれこれを紹介します。
 まず発想が生まれる場所、不思議なことに洋の東西を問わず三つの場所がその聖地のようです。

 その場所を西洋では「3B」というようです。三つのBとは「Bus,Bath,Bed」、東洋(日本)では「三上」というようです。三つの上とは「鞍上、枕上、厠上」、Bus(車のバス)=鞍上(馬の上)、Bath(風呂)=厠上(トイレ)、Bed(ベッド)=枕上(まくら)とほぼ似たような場所です。(参考:「3Bと三上」

 私もまったくこのとおりだなと思うんです。特に車に乗っているとき、それも朝出勤するときに「ひらめいた!」と思うことが多いんです。

 ところがです・・・車を降りたとたんにパッと忘れてしまうんですよ。ハンドル握っているからメモ取ったりできないし、録音なんかも機械を出したり操作したりで中身を忘れてしまいます。寝ているときも同じ悩み・・・こちらは目を開けたとたんにパッと忘れてしまいます。凡人と偉大な人間の違いは多少なりともこの記憶力にあるのかもしれません。

 さて、発明家は当然発想が最初、作家も創作ですからやっぱり発想が最初なんですね。最近読んだ本からそれぞれの発想法について引用したいと思います。

 まず発明家から。藤村靖之さんの言(参考ブログ「「月3万円ビジネスならできる」 「テクテクノロジー革命」

「テクテクノロジー革命」より
わかっていることとわかっていることの組み合わせ

「・・・目的というよりテーマですね。テーマがはっきりしていないと発明はできません。でも技術の世界でポピュラーなのは、ニーズ(必要性)とシーズ(種)という言葉です。シーズから出発することが大切だと思いこんでいる技術者、科学者が案外多いんです。たとえば、形状記憶合金とか、青色ダイオードとか、それらがシーズですね。これを使って何かを発明できないだろうか、と。こういうのをシーズからの発想と言いますが、それは私の意見では、一番発明が生まれにくいパターンです。発明というのは所詮、わかっていることとわかっていることのただの組み合わせなんです。・・・」

 「発明はそれにつきる。わかっていることの組み合わせが頭の中で起こることをインスピレーションというのですが、そのためにはテーマが必要なんです。金持ちになりたいとかいう漠然とした目的ではだめですね。たとえば「電気を使わないでモノを冷やしてみたい」というのが、この場合のテーマです。これを実現するために、わかっていることと、わかっていることを組み合わせるんです。非電化冷蔵庫の場合は「放射冷却」と「水の自然対流」です。・・・」

 「組み合わせを起こすためにはふたつの条件が整っていればいいんです。ひとつはテーマを強く意識すること、目的ではなくて、テーマです。それから、わかっていることをたくさんインプットしておくこと。それも組み合わせが起こりやすいかたちで、インプットし続けること。・・・」

 これ以上知りたい方はこの本がいいですよ。「さあ、発明家の出番です」
 
 次は児童文学者ケストナーの言葉からです。「エーミールと探偵たち」を書き始める前の作者の苦闘を前書きにしています。さすがに文学者、前書き自体がもう物語になっています。

「エーミールと探偵たち」より
話はぜんぜんはじまらない

 「・・・けれども、お話はいっこうにやってこなかった。ぼくは寒くなった。それで、ぷりぷりしながら窓を閉めて、テーブルのまわりを五十三回まわった。でもなんにもならなかった。

 そこで、前にしたように、床の上にながながと寝そべって、ああでもないこうでもないと考えて暇をつぶしていた。

 そうやって部屋に寝そべると、世界はぜんぜんちがって見える。椅子の脚、室内履き、じゅうたんの花もよう、タバコの灰、綿ぼこり、テーブルの脚。あ、ソファの下に左の手袋がある。三日前に、タンスのひきだしをさがしてもみつからなかったやつだ。そうやって興味しんしん、自分の部屋に寝そべって、上からではなく下からまわりをながめているうちに、ぼくはあることに気がついて、びっくりぎょうてんしてしまった。椅子の脚って、ふくらはぎがあるんだ!色黒で、ぴしっとひきしまっている。まるでアフリカの人か、茶色いソックスをはいた学校の生徒のふくらはぎみたい。

 いったい何人のアフリカ人だか生徒だかが、この部屋のじゅうたんの上に立っているんだろう?調べてやれ、と思って、椅子やテーブルの脚をかぞえようとしたときだ。ひょっこりエーミールのことがひらめいたのだ!茶色いソックスの生徒のことを考えていたからだろうか?それともエーミールの名字がティッシュパイン(テーブルの脚)だからだろうか?」

 「・・・ひらめきのつかまえかたは、ちょっとちがう。ひらめきはこま切れでつかまえる。まずは、たぶん頭の毛かなんかをつかまえる。すると、左の前脚が飛んできて、それから右の前脚もやってくる、おつぎはお尻、後ろ脚と、すこしづつやってくるのだ。そして、これでもうお話はぜんぶだな、と思っていると、なんとまあ、耳がひとつ、ぶらぶらやってきたりする。そうやって、運がいいと、お話はぜんぶそろうのだ」

 「・・・もしかしたら、みんなはさえているから、ぼくがお話をする前に、このばらばらの部品から、さっさとお話を組み立ててしまうかもしれないね。もらった積木で、設計図なしで駅や教会を作るみたいに。ルールは、積木をひとつも使い残さないこと!」

 「なんだか、テストみたいなことになってきたぞ。
 やれやれ!
 でも、だれも点なんかつけない。
 よかった、よかった!」

 最後に藤村さんの本にはこんな章が。「悪い発明」Vs「いい発明」。

 悪いとかいいとかいうけど、それはどんなこと?と、一人一人考えることこそ一番大事な「発想」だと私は思いますね。