「成長類」はどこへ行く?

 先進国に住む人類は「ほ乳類」ではないそうです。「成長類」だそうです。宇宙物理学者の池内了(さとる)さんが9年前にそう書いていました。
 原発も経済危機もあるいは戦争も、その遠因は私たちの「成長絶対主義」、それを進めるための「効率教」信仰にあるではないでしょうか?

 普段あたりまえのように思っているこれらの原理、今、別な観点から見直してみることはとても大切なことではないでしょうか。

 もちろん成長へのバイタリティーは野性の源でもありますから、決して全否定ではないやり方で。

 別な価値観とのバランスをとって、徐々に「今までより少しでも幸せな原理」で生きられるようにしていくのがよいのではないでしょうか。

 さて、このブログを書こうと思ったのは、昨日の新聞に載っていたある記事を読んだからです。
 ダニエル・コーエンさんに聞く「経済成長という麻薬」.docx 直

 一部を引用します。

――豊かになっても、幸せにはならないのでしょうか?

 「ならない。快感は成長が加速するときに得られるだけだ。新しいカメラを買った初日みたいなものだ。1年は続くかもしれないが、そのうち飽きてしまう。人を幸せな気分にするのは成長であって、豊かさそのものではない。到達点がどこかは重要ではない。重要なのは『もっと、もっと』という感覚だ」
 「だから、大きな幸福感を得るときというのは、大変残念ながら日本も経験したように、すべてを破壊する戦争などのあとだ。とても大きな苦しみの後、30年にわたって幸せを感じることができる」

 そして、科学者による「成長」への疑問符を紹介します。

 成長のみを「真」「正」「聖」「運命」と盲信することこそ非科学的なこと、そういう時代に入ったのではないでしょうか?

池内了「ヤバンな科学」より

「成長類」はどこへ行く?

動物のエネルギー消費量には法則がある

 動物の体の仕組みには共通する基本デザインが存在するらしい。どの動物も、生きていく上で使うエネルギー消費量は、体重の四分の三乗に比例する法則があるからだ。しかしよく調べてみると、同じ体重で消費エネルギーを比較すると、大腸菌のような単細胞動物を一として、蛇のような多細胞変温動物は一〇、恒温動物である哺乳類ほ三〇〇になる。単細胞から多細胞へ、変温から恒温へと、動物の進化が質的なジャンプをするにつれ、およそ十倍ずつ多くのエネルギーを消費するようになったのだ。

人類は新しい生物へ進化した

 ところが、先進国に住む人類は、生産や生活のために使うエネルギーを含めると、体が消費するエネルギーの四十倍以上使っている。人類ほ哺乳類とは質的に異なった新しい生物へ進化したのである。これを「成長類」と呼ばう。経済成長を唯一の目標にして、環境が荒れようが、負の遺産に子孫が苦労するのも気にかけず、大量生産・大量消費・大量廃棄の道をひたすら歩んでいるからだ。私たちが「成長類」として現在の生活様式を続ける限り、いずれ地球の許容量を超えて破綻するのは確実である。それを知りつつ、自分一人が節約をしたって大したことはないさと言い訳して、私たちは「成長類」の道をひたすら歩んでいるのだ。さて、「成長顛」はどこへ行くのであろうか。

「成長類」は終蔦を迎える

 確かに言えることは、永遠の成長はあり得ないのだから、いずれ行き止まりが来るということだ。その行き止まりは、「環境圧」によってもはや成長が望み得ない事態を迎えるときである。環境圧とは、地球温暖化や気候変動による食糧生産の減少や資源枯渇による物価上昇など、痛めつけられた環境が「成長類」の生き様にかける圧力のことである。人は外圧がなければ変わらない。環境圧に対抗するための費用が経済成長を上回るようになると、必然的に大量生産・大量消費のシステムから身の丈にあった生産・消費システムへと転換せざるを得ず、「成長類」は終蔦を迎えるのだ。

ソフトランディングは可能か?

 問題は、環境圧の犠牲をいかに少なく抑え、スムーズにソフトランディングを果たせるか、である。現在のような史上最強の軍事国家が世界を牛耳る状況では、食糧や資源獲得の戦争が始まり、膨大な犠牲者を生み出すことになるだろう。まずは、軍事力に頼らない世界を構想しなければならないのだ。

 同時に、二十一世紀前半は人額の歴史において初めて発展路線からの撤退を迫られる時期、という自覚が不可欠である。十万年前にホモ・サピエンスとなって以来、ずっと人類はさまざまな工夫と発明によって生産力を高め続けてきた。右肩上がりの発展路線をひたすら歩み続けてきたのだ。その極限が二十世紀後半の大量生産・大量消費・大量廃棄のシステムであり、地球の有限性の壁にぶつかることになった。

 幸いにも、このまま進めば人類の存続が不可能であるという合意は形成されつつある。環境圧を人々は感じ始めているのだ。ならば、積極的に、「いっそう速く前へ進む」という習い性から「ゆっくり、時にほ後退もして」という歩行モードに切り替えようではないか。これには、十年かけて十年前のレベルに、二十年かけて二十年前のレベルに、という程度の努力で十分なのである。

一万年先の物語

 現在の地球人からさらに一万年先まで生き延びた地球人を想定してみよう。かれらの世界は核兵器のみならず一切の兵器を廃棄しており、戦争は死語になっているに違いない。

 かれらはより速く、より大きく、より大量に、という発展や成長を重視する神話から解放され、よりゆったりと、より小さく、より少量であることに満足する新しい物語を紡ぎ出していることだろう。

 自律し、多様性を重んじ、物質的な欲望に恬淡(てんたん)で、しかし知的に豊かな人生を愉しんでいることだろう。

 「成長類」の行く手には、膨大な犠牲か、ソフトランディングか、いずれかの運命が待っている。

 それを決めるのは二十一世紀前半の私たちの生き様なのである。

参考
アルキメデスの末裔
発明は必要の母
私たちには鏡が必要だ