「部分自然」と「全体自然」

 あまりにも「経済学」と「物理学」だけ偏重し過ぎではないでしょうか。今の世は。それとあまりにも「専門化」のし過ぎみたいです。「木ばっかり見て森が見えない人」だらけです。もっと総合的な学問とか考え方がないと、人類は地球の「デストロイヤー」になってしまいそうです。
 だから原発なんかにしても、こんな事故が起きてさえ「世のため人のため進まねばならぬ」と考え続ける「専門馬鹿」が絶えず、取り返しの付かないことを再び起こすのではないかと、とても心配です。

 学者だけでなく、私たち一般人の多くも似たような思考スタイルになっている感じがします。

 つまり「一本の木だけに関心があって、森全体の荒廃に気づかない」というような。

 今西錦司著『自然学の提唱』を読んで、そんなことを大いに感じました。


 かつて、今西錦司を親分とする京都学派とよばれる若き学者達は、自然科学、文化人類学、民俗学、霊長類学、哲学、歴史学などなど様々な分野を横断し、探検や観察を主体としたとてもユニークな方法のもと、独自の分野を開拓してきました。

 そのうちダーウィンの弱肉強食ともいえる進化論に異を唱え、独自の「棲み分け」理論を提唱したのが今西錦司です。その根本には、東洋的ともいえる「環境と生物の一体化」「共存と多様な相互関係」という生き生きした自然観がありました。(ノボ)

 少し長くなりますし、内容が似ている文章もありますが、今日は『自然学の提唱』から「森を見る(観る)」重要性について書かれた箇所を、自分の備忘録としても記しておきたいと思います。

「自然をどう見るか」

 本日は、自然をどうみるかという題でお話を致しますが、自然はみる人の立場とか態度によりましていろいろにみられる。自然とは何かという質問出したら恐らく十人十色のお返事が出るんじゃなかろうかと思います。そのように自然というものは大変幅広く、また奥行きの深いものでございます。

 それで始めに自然科学者は一体自然をどういう風にみているか。どういう風にとらえているか、という事を申し上げますが、先ず第一には自然科学者が自然をみる時には、その自然を客観的にみる。客観的にみるという事はですね、自分の主観をまじえずに自然をみる。そこでみる方の自分と自然というものを切り離して応対する。この切り離すという事が自然科学のみならず、西欧の論理を貫いているものですね。これはいつも切り離しますから、例えば白と黒と切ってしまって間に薄ずみ色のどっちつかずというものを残さない、それが西欧の論理の特徴です。

 それで今主観をまじえないと言いましたが、花は美しいとか、鳥の鳴き声がきれいだとかそういうのはみな主観でございまして、そういうものはみな自然科学では取りあげない。そういう見方は取りあげない。それから物理科学なんかは別としてですね、動物学、植物学、地質学、鉱物学これらは皆自然科学で、自然を対象としておりますが、今申しましたように切り離してしまう西欧の論理で、動物学は動物だけ、植物学は植物だけを研究する。

 そうしますと植物も動物も鉱物もですね、みんなそれは自然を構成している自然の一部分であるには相違ありません。しかしその夫々の動物、植物、鉱物となんでもよろしいが、その切り離されたものを研究している人はいわば専門家であって、自然全体というものを知ろうとしているのではない。

 これは切り離すとそうなるんですが、結局専門家というものは、自然の部分を調べて部分的にはくわしく知っているが全体については一向に知らない。部分的な自然しか知らん、しかしそれは自然科学の約束であってですね、何でも切り離さざるを得ない。

 専門家は全体というものをみようとしない。そんなら全体的な自然というものは本当にあるのかと言いますと、それはちゃんとありますね。私の目の前に全体的な自然がいつもみえている。全体のままでとりあげるという立場があるかと言いますと、それは宗教とか芸術とかいうものは全体のままでつかもうとしている。あるいは登山家とか探検家というものは自然の中に入って行って自然全体とかけひきしなければなりませんから、これも全体をつかんでいるわけですね。

 それから先程専門家と言う言葉を言いましたが、専門家に対する一般の人というものはどうか、一般の人は自然を動物とか植物とかに切り離したりいたしません。一般人の立場はやはり自然は自然でのままで全体としてみようとする立場なんですね。
(1982年)

「自然学へ近づけたきっかけ」

 考えてみると、今日繁栄をきわめている科学時代ーもちろん自然科学時代−に、世界のどこを見ても、自然学という名の講座をもった大学は見あたらないのである。なんと不思譲なことであるまいか。

 しかし、これはもともと今日の科学が拠ってたつ還元主義(レダクショニズム)のしからしめるところであって、科学の取り扱うのは、すべて部分に細分された自然であり、部分自然であるにすぎない。

 もともとこうした部分自然の他に、完璧な全体自然というものがあるはずであり、もとはたしかにあったはずだが、いまや科学の進むところ、このすべてのものの母体である全体自然の存在さえ、忘れ去られようとしている。人間の精神史にとって、まさに未曾有の危機であるといっても、過言ではない。
(1983年)

「自然学とは何か」

 これは物理学が自然科学の範たるものであって、生物学などまだ学問の体をなしていないと考えられていた今世紀初頭の風潮にたいして、抗議しているのである。いまごろはライフサイエンスなどという言葉とともに、生物学もようやく見直されつつあるが、しかし、遺伝子であるとかDNAであるとかいった極微の世界を通じて、どんな自然観が生まれてくるのか。

 世の中には一生実験服をまとうて、実験室外に出たことのない人もいる。動物や植物の自然のままの姿など一度も見たことのない高名な学者もいることだろう。そんな人たちのもっている自然観と、生涯をフィールド(自然)の中でくらしてきた私のようなものの自然観とが、いっしょにされてたまるか、という気持ちはいまでも、底流かどうかしらぬが、どこかにくすぶっている。自然科学などなくたって自然は存在する。

 自然科学なんてえらそうな顔をしても、自然の一部しか知ることができない。自然を細分して、その分野の専門家になったところで、それは部分自然の専門家にすぎない。部分自然の他に全体自然があるということを、学校教育では教えてくれない。私に全体自然があるということを教えてくれたのは、山と探検であった。
(1983年)

「自然学の提唱」

 とにかく今日ほど自然という字の氾濫している時代はない。自然保護も自然破壊も含めて。そういうことをいっている人にはたしてどの程度までの自然の認識があるのだろうか。自然が叫ばれる頻度とはううはらに、今日ほど自然の認識の貧困な時代はないのではないか。

 その原因の一半は、学生に自然学を教えるひとがいないからである。かつては理科系の学生に自然概論が講義されていた時があったといった。専門化するまえの理科系の学生に、自然学の講義を与える必要があるのでなかろうか。いやもっと以前に、高校で、あるいは中学で、自然とはなにか、全体自然とはなにか、を教える必要があるのでなかろうか。

 自然は物質でなくて、生きものであり、われわれさえ、かつてはその中にもろもろの生物とともに育まれていた巨大な母体であり、巨人であり、怪物であるということを。

 自然学の探求に、自然科学的方法論を用いて悪いという理由はどこにもない。しかし、自然学の探求には、自然科学的方法論を用いるだけでは、到達できない一面がある。自然学は自然科学系列からはみ出した学問なのであろう。自然学には直観の世界も、無意識の世界も、取りこまれなければならないからである。
(1983年)

「類推と直感」
 つぎに直観の話をすこし致します。直観は類推とちがいまして、われわれが日常生活において、しよつちゅう体験しているものであります。まず例をあげてみましょう。

 山へ行きまして、いままで登ってきた道が二つに分かれた。右が正しいのか左が正しいのかわからんという場合どうするか。

 そんな時は地図も磁石も当てにならない。直観に頼る以外にないのです。山の中で霧に巻かれたり、吹雪に会ったりした時も同じことです。ここを行ったらよいということがわかっても、なぜよいのかということがわからない。みんなの納得できるように説明することができない。理屈でなくてわかる。それが直観というものですね。
 
 昔の行者なんかは、よく山へ行きまして滝に打たれていますね。あれは身を清めるためだといいますけれども、たとえば中西悟堂さんという、野鳥の会のボスがおりますね。あの人はもと比叡山の坊さんだったんです。その坊さんの時代に那智の滝に打たれにいった。

 その時の話ですが、はじめに滝の音がごうごうと鳴りひびいていて、なにも聞こえない。しかし、そのうちにですね、いつかもうその滝の普が聞こえなくなってきて、四百米ほど離れたところにある家に住んでる人の話声が聞こえてきた。

 おかしなこともあるもんやなと思い、その人を訪ねて、さっきこんな話をしてましたかといったら、いかにもその通りだがあんたは滝に打たれていて、どうしてそれがわかったのか、と聞かれたそうですが、それもまあ直観につながるんでしょうね。

 こういうことを考えますと、直観というのは精神集中することでなくて、むしろ、精神を解放する。われわれはつねに意識過剰になっているが、その意識をすっかり追い払ってしまうということと、なにか関係があるのではないかと思えてきますね。
(1982年)

参考
 「生物の世界」拾い読み
 学問する順番
 宇宙船ビーグル号と似ている今
 毛細血管の話