「贈与経済」という考え方もあるんですね。というか、元々の経済はそこから始まったみたいですが。内田樹(たつる)さんのブログを読んで、一風変わった税制改革を思いつきました。
実は、これにはもう一つ理由があって、今手元に「平成24年度版税制改革のあらまし(速報版)」というプリントがあったからなんです。
まず内田樹(たつる)さんのブログから抜き書きで引用します。
(全文はこちら→「贈与経済」論(再録))
不思議なことだが、「これまでの経済システム以外のものを想像できない人たち」が自分のことを「リアリスト」と呼んでいる。そういう「リアリスト」たちと訣別すべきときが来ていると私は思う。
(以下、岡田斗司夫さんからの引用)贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」するということです。それだけ。
「自分のところに来たもの」というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分のところで止めないで、次に回す。
自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくら持っていてもそれではもう「金で金を買う」以外のことはできなくなる。
それで「金を買う」以外に使い道のないようなお金は「なくてもいい」お金だと僕は思います。それは周りの貧しい人たちに「パス」してあげて、彼らの身体的要求を満たすことに使えばいい。
ご飯や服や家や学校や病院のような、直接人間の日常的欲求をみたすものに使えばいい。タックスヘイブンの銀行口座の磁気的な数字になっているよりは、具体的に手で触れる「もの」に姿を変える方がいい。
贈与がうまくゆかないのは、贈与経済そのものが荒唐無稽な制度だからではありません。
そうではなくて、贈れるだけの資産をもっている人たちが、それにもかかわらず贈与を行うだけの市民的成熟に達していないからです。
適切なる「贈る相手」をきちんとリストアップできていないからです。
パスを送ったときに、「ありがとう」とにっこり笑って言ってくれて、気まずさも、こだわりも残らないような人間的なネットワークをあらかじめ自分の周囲に構築できていないからです。
貧乏なとき、困っているとき、落ち込んでいるときに、相互支援のネットワークの中で、助けたり、助けられたりということを繰り返し経験してきた人間だけがそのようなネットワークを持つことができる。
その日まで、自己利益だけ追求して、孤立して生きてきた『クリスマス・キャロル』のスクルージ爺さんみたいな強欲な人が、ある日株で儲けたから、宝くじで当たったからと言って、このお金を貧しい人たちにあげようと思い立っても、どうしていいかわからない。贈りますと言っても、たぶんみんな気味悪がって、受け取ってくれない。
今は夢物語に聞こえるかも知れませんけれど、僕は「交換から贈与へ」という経済活動の大きな流れそのものはもう変わりようがないと思っています。
そのうちに、ビジネス実用書のコーナーに「どうすればともだちができるか」「後味のよい贈り物のしかた」というような本が並ぶようになっても、僕は怪しみません。
はるか大昔はこうであったことでしょう。
一人が自分の提供できるものを、ためしに道ばたにおいた。もう一人の人間もマネをした。
やがて多くの人間もマネをした。それぞれに必要なものが道ばたにあったのでそれを持って行った。
これがたぶん「贈与経済」というか経済活動の始まりでしょう。
決して等価交換ではないのです。等価?(と思い込む)交換は貨幣という仲介手段ができてからのことでしょう。
今、「等価交換という幻想」を離れた経済学がすこしづつ見直され始めているようです。
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それはボランティアというものとも大いに関係がありそうです。
ボランティアとは、単なる人間の善意の発露だけではなく、そこには等価価値交換と異なる経済活動の可能性も秘めていると私は思っています。
それは「自分にあるものを互いに提供し合う」というしくみです。
それは「人間の匂いがする経済システム」です。
それだけで世の中が動くとは思いませんが、その新たなシステムの割合を合理的な方法で増やしていくことが、これからの「幸福」の要点になるものと思います。
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そこで、思いつき税制改革私論です。
「所得税、法人税の半分は、本人(法人)が具体的な使い途を決めて贈与する。ただし社会の全体最適につながることにしか許可されない」
今は退蔵されたお金というものが、グローバル化の御旗の元に、猛然と野蛮な投資活動につぎこまれています。
それは、もうけの臭いをかぎつけ怖ろしげな火を噴きながら、猛然と空中を疾走する巨大な龍のようです。
投資する人も、運用する人も、投資される人も、だれもが一部の仕事にしか携わっていないため、自分が野蛮な投資活動に加担しているなどとはつゆほども思いません。
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さて、私が提案するこの「贈与税金」は、使われ方を目で見えるものにして、さらに自分が判断することで、何が大事なこと、必要なことなのかを一人ひとりが認識するということなのです。
赤十字とかその他の類似団体への寄付とは、目的が異なることです。
金を儲ける能力、金を貯める能力だけが価値とみなされてきた従来の「仕事(ビジネス)」に、「金を善く使う能力」こそもっと大事な価値にしていこうという目的の制度です。
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再び前述のブログから引用しましょう。
贈与経済が成り立つための要件は、ですからある意味きわめてシンプルです。市民的に成熟していること。
それだけです。
自分より立場の弱い人たちを含む相互扶助的なネットワークをすでに作り上げており、その中で自分が「もっぱら持ち出し」役であることを愉しむようなマインドをもつ人であること。
そういう人のところに選択的にリソースが集中するシステムが贈与経済システムです。
かつて青島幸男は「ぜにのないやつぁ俺んとこへこい 俺もないけど心配すんな 見ろよ 青い空 白い雲 そのうちなんとかなるだろう」というすばらしいフレーズを植木等のために書きましたが、こういうセリフがさらっと言える人間が「ぐるぐる回る」活動のハブになる。そういうのが理想の社会だと僕は思っています。