『日本の原爆』を読んで(その1)

 この本を重い気持ちで読み終わりました。著者の何十年にも及ぶ綿密な調査。読了後、「原発立国」のルーツは太平洋戦争にあったことを実感しました。そこには人間くさき科学者の葛藤、軍人との駆け引き、平和利用への夢と情熱もありました。複雑な心境です。。。

 昨日の夕方、保阪正康著『日本の原爆』を読み終わりました。

 偶然なのか、同日夜10時からNHKでETV特集「核燃料サイクル“迷走”の軌跡」が放映され、「日本の原爆その後」とでもいうべき原子力村の開拓史を知ることになりました。

 「原爆」という悪魔の兵器、「原発」という悪魔の子供(天使とされてきたが)。

 これらを進めてきたのがいかにも「悪人」であったらいいのですが、実際はその逆。。。一人ひとりと会って話したら、きっと「あれっ?」っていう感じになるでしょう。

 きわめて優秀かつまじめな科学者たち。日本の未来を真剣に考えようとした官僚たち。少なくても戦後、原発の出発点においては、だれもが賞賛したくなるような熱き情熱を持つ人々が多かったのです。

 それなのに、なぜ3.11の大事故は発生し、そして反省もなく、またもやみくもに旧態依然に戻ろうと必死にならざるを得ないのでしょうか?

 大事なことが書かれている本です。二回に分けて紹介したいと思います。

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 私がこの本『日本の原爆』を買ったのは、こんな疑問を解きたいと思ったからでした。

 昭和20年1月、終戦となるこの年に私の父は徴兵され、現在の北朝鮮に送られました。同年8月にはシベリアに連れて行かれ3年半に及ぶ抑留生活を強いられることとなりました。

 父からその頃の話は何度となく聞かされているのですが、最近のある日、徴兵される前から「原子爆弾」開発を日米で競争していることを皆が知っていた、と聞いたのです。

 私は「え〜!それは極秘だったはずでは?」と不思議に思いました。

 たしかに史実はそのとおりなのですが、アメリカのマンハッタン計画は当時副大統領だったトルーマンにすら知らされていなかったという極秘中の極秘でしたし、ましてや日本で「原爆開発」が行われていることも極秘であったはずと思っていたからです。

 ルーズベルトが終戦直前に急死し、跡を継いだトルーマンが原爆製造が実現寸前であることを初めて知り、完成を急がせ、その情報をもってポツダム会談に強気で臨んだという裏話は、NHKの特集で見ていました。

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 本を読んでわかりました。

 原爆完成のたった6年前に、ウラン原子に中性子をぶつけると核分裂の連鎖反応が生じ莫大なエネルギーが生じる、という発見がありました。

 世界中の物理学者はその頃交流があり、そのことを知っていました。

 20世紀は素粒子物理学が幕開けされ、諸科学の王様として君臨した時代です。

 ですから世界中の最高頭脳はこの分野に集まり、日々熾烈な研究競争をしていました。

 日本でも湯川博士をはじめ、ノーベル賞級の物理学者が偉大な研究・発見をしましたが、時期的には戦争に突入する少し前の頃です。

 ですから、どこの国でも「ウラン爆弾」なる概念は共有していたようです。

 日本では「マッチ箱一個で一つの都市が消滅する」という、独特の形容で民衆の間にも情報が行き渡っていたようです。一縷の期待を込めて。

 それらは、子供向けの空想科学小説などにも登場していることから、多くの人が知っていたことが窺えます。

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 日本は原爆を落とされ、アメリカを非人道的と今でも憎んでいます。

 しかし、日本でも万が一原爆を完成させていたら、まちがいなくロサンゼルスへ投下したであろうことはこの本を読んではっきりします。

 あの「風船爆弾」も山火事をおこすことが目的ではなく、「ペスト菌」や「コレラ菌」をばらまくための兵器であったことも、この本では書いています。

 決戦兵器と称するもののなかで、成功したのは風船爆弾である。これは、北米ロッキー山脈に風船を衝突させて山火事を起こすのが狙いとされた。が、その実、ペスト菌やコレラ菌、満州にある石井四郎部隊で培養していたこれらの菌を風船に積んで飛ばすのが其の狙いだったと、謀略兵器に携わっていたある技術将校(第九技研関係者)は証言している。

 なぜ、良心的な科学者たちが悪魔の兵器つくりを拒否できないのか、できなかったのか、それをこの本では考えさせてくれます。

 それは、「原発の問題」と同じ構造をもっています。

 原発の制御不能なリスク、廃棄物処理の困難を知ってもなお撤退できず、逆に推進しようという方向性とうり二つです。

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 アメリカのマンハッタン計画は延べ54万人、日本の原爆開発は何十人という単位で、巨像と細菌くらいの規模の違いがありました。日本の科学者たちは、この大戦中に開発は不可能と確信しつつも(他国でも無理と思っていたらしい)、軍部に逆らえず研究を進めました。

 陸軍は「理化学研究所」の仁科博士を中心として、海軍は「京都帝大」の荒勝博士を中心として。

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 本の中から、あれこれ考えさせられる箇所をピックアップしてみます。(読みやすいように見出しを付けました)

原爆研究は研究者の天国だった

 ・・・山本はこの稿の中で、さらに戦時下の科学者の立場について二つのことを強調している。ひとつは、実は科学者にとっては、この原爆製造計画の時代は意外なことに「研究の自由」があつたとの逆説が証明されているというのだ。「大法輪」(昭和二十八年八月号)の「日本原爆の真相」の一節を紹介したい。その指摘は本質を突いているし、現代にも通じているので引用しておきたい。

 (戦争の末期に原子力研究は、技術院が戦時研究として軍部の管理の下に統制をとつていた。戦時研究に従事する研究員は、軍への応召を免ぜられ、ひたすらに軍の要求する研究にしたがい、いろいろの便宜をあたえられたのである。軍の目的にそうように進めれば各自の専門の研究をつゞけていればよかったのだから、幸福だったわけである。昭和二十六年日本学術会議の学問思想の自由保障委員会が、全国の科学者にアンケートをだし、過去数十年間における学問の自由がもっとも実現していたのはいつか、という質問をしたのにたいして、太平洋戦争中であったという回答が一番多かつたとのことである。研究費もかなりに潤沢で、身分が保証されていたのであるから、戦時研究員をした人たちなどからみれば、戦時中こそ最良のときであつたのはたしかである)

 ・・・意外なことに、戦時下にあっては社会科学や人文科学は弾圧されたり牽制されたりして「学問の自由」は抑制されたが、しかし理工系に関しては「戦時研究」と名がつけばすべてが許容され、予算も大幅につけられた。例えば仁科研の「ニ号研究」は、研究費の総額がおよそ二千万円以上に及んでいた(現在に換算すると三百億円になると推測される)。原爆製造計画と名がつけば科学者はまさに「研究天国」だったと、山本は戦後社会で一貫して主張していたのである。

風潮に合わせるのが日本の科学者

 科学者の世界は閉鎖社会だというのだ。戦後社会にあってもそれは変わらない。このことは何を物語るのか。戦時下で原爆製造計画に関わった科学者のその姿勢は、戦後になったからといって、否定したり、なかったことにするのは許されないとの意味である。相互批判や正面からの議論を避けるがゆえに、仁科研が陸軍の各機関の委嘱や依頼を受けて行ったその研究内容や、そのプロセスが暖味なままにされてきたということだろう。

 この二点はいずれも昭和二十八年段階のことだが、それはその後もー貫して続いていたと、山本は私に対し述懐したのである。

 山本はやはりこの稿に書いているし、私にも説明していたが、戦後になって再び学問の世界に戻ったときに、かつて陸軍の技術将校として接した原子物理学者にもしばしば会うことになった。その折りにある大学の教授は、これからは平和と民主主義のために科学技術を用いることになったと繰り返し、「科学は平和を愛する人のためにあるのです」と話していた。その教授は戦時下で原子爆弾製造計画に関わることになり、その身分も軍の嘱託となって保障された折りには、「今度はいよいよ軍の嘱託となって、科学で国に奉公できるようになつた。うれしいことです」と真面目にロにしていた。

 そのときどきの風潮に合わせる科学者は、日本の学界の特徴だと山本は自戒を交えて饒舌に話し続けた。原子爆弾製造計画のその裏側には多様な側面があり、それを身を以て体験した山本は、科学者のあるべき姿とはどのようなものか、それを何度も自らに問うたというのであった。

 今の日本に必要なのも、この間いかけを自らに行う科学者である。そのような科学者が主流を占めていけば、日本の原子力行政もきわめて高い安全性を保つことになるのだろうが、現実にはどうなのか。

国を思う心と軍部への接近

 (1943年2月1日にはじまり7日に終わったガグルカナ〜島からの1万1千人あまりの退却(地上戦闘での戦死者・餓死者2万5千人)を「転進」であるとし、作戦上の戦線整理であると苦しい発表をした。この新聞記事を見て仁科は「負けたのであって、転進などとごまかしてはいけない」と言い、「転進」を信じていた次男の浩二郎と言い合いをした〉

 (アッツ島の守備隊2500人の玉砕は5月頃であったが、それを報ずるラジオを聴きながら父・仁科芳雄が涙を流していたのを雄一郎(長男)は、はっきり記憶しているという〉

 この二つの記述を見てすぐに分かるのだが、仁科は今まさに戦争を続けている国家の国民の心理になっていたという事実である。いわば日本人として、同胞が餓死していくその現実に耐えられない思いを持ったのだ。この仁科の心情が、「原子爆弾は技術的に可能」という、陸軍側の二つの問い合わせ(東二造と航空本部)に対しての回答となったのであろう。仁科のこの心理、そして回答は、図らずもこの期の原子物理学の理論を、現実の軍事や政治に従属させていくことを意味していた。これは何も仁科を批判しているわけではなく、当時の世界の科学者がそれぞれ自国へのナショナル・アイデンティティを持ったのと、同じ構図の中にあるということになる。

 ・・・仁科のこの心理や考え方が、巧みに軍事に利用されそうになったということではないかと思われるのだ。そのこと自体が、戦後における原子力の平和利用への教訓となっているのである。

もうひとつの本音

 ・・・ここからは私の推測になるのだが、科学者・仁科の本心を分析しておきたい。そこには科学者特有の心理がある。仁科があえて若い科学者を「ニ号研究」に従わせて研究させていたのは、ひとつに彼らを兵士として戦場に送り出したくない、戦死させてはならない、もし戟死させてしまえば日本の原子物理学は外国よりも遅れてしまうとの恐怖があったとみるべきであろう。そしてもうひとつ
は、かつて私が大阪大教授の浅田常三郎から聞いた、次の言の中に鍵があると思う。浅田は次のように証言したのだ。

 「戦争が終わったあとに、海外の学者から『日本はまだこんなことも知らなかったのか』と言われないために、つまり科学者としてのプライドのために、仁科さんは研究を続けさせていたと考えるべきでしょう。それにこれは当然のことですが、仁科さんは陸軍でしたが、海軍は京都帝大の荒勝文策教授の研究室に委嘱研究をさせていましたから、そちらへのライバル意識もあったと思いますね」

平時には天使となってほしい
 私の取材で、竹内は次のように振り返っていた。「実験の結果に、別にショックを受けたわけではないのです。これからもずっと実験は続けていきたいと思っていました。正直言いましてね、ウラン爆弾というより、原子エネルギーをどうやったら取り出せるか、そのほうに私たちの関心は強かったんですよ」

 私はこのときは竹内の証言の意味が分からなかったのだが、今にして思えば、それは原子爆弾というより、そのエネルギーの平和利用である原子力発電への関心というべきだったのだ。

 これは私なりの言い方になるのだが、原子物理学者たちの発見した科学法則は、戦争の時代にあっては大量殺戮兵器になる、つまり(悪魔) になってしまうのだが、平時にあっては(天使)となってほしいとの願望が、この期には竹内を始めとする科学者たちの心理に宿り始めていたということでもあろう。

ラジオで原爆投下の事前通告

 これは武谷も認めていたが、このころの原子物理学者や科学者は大体が語学が自在にできるために、密かにアメリカからの「日本人向け」のラジオ放送に耳を傾ける者が多かったのである。その短波放送では、アメリカ側は近日中に新型爆弾を日本に投下すると何度も放送していたというのだが、たとえば甲南大学の西川善良教授は「新型爆弾を落とすから、日本の軍人は降伏したほうがいいという内容は何度も放送されていました」と私に証言している。ということは、陸軍の技術将校や原子物理学者の多くはこのような事態を充分に知っていたことになる。

 ただこのころの情勢では、まず一般庶民は到底海外放送など聞くことはできなかった(これが見つかればすぐに逮捕された)。だからこうした噂は密かに人づてに広がっていったことになる。そのために軍では「こういう放送はすべてデマである」と言い、その旨新聞に書かせてい心。新聞もまた「こうした謀略放送に注意」と報じて、頭から一蹴する態度に出ていた。

悪魔の手先にならなくて良かった

 ではこの原爆が落ちた日、そしてその時聞から政治軍事指導者、原子物理学者や科学者はどのようを態度をとつたのだろうか。もとよりこれには歴史的に二つの意味があった。ひとつは、日本の原子物理学者が、アメリカの原子物理学着たちに「新型爆弾」を製造するという意味ではまったくの敗北を喫したということだ。国力の差はあるにしても、敗北であったという事実を認めるのが第一であった。

 そしてふたつ目の歴史的意味として、この敗北は日本の原子物理学者にとっては良かったともいえる。原子物理学者は自らの専門分野を現実に工学化して軍事的兵器に変えたなら、(広島〉という現実を演出した研究者となる。その良心の責め苦を背負うことから解放されることになつたのだ。

 実際に私は、ニ号研究に加わった原子物理学者から、「われわれはウラン爆弾の製造に関わったにせよ、実際に製造までに行き着かなかったことに僥倖という感じをもっています。まあはっきりいえば、悪魔の手先にならなくて良かったということになるわけです‥…」と聞いている。

科学者が抱え込む宿痾(しゅくあ)

 こうした研究に末端で関わった若い原子物理学者を東京郊外の自宅に訪ねて話を聞いているときに、不意にこの研究者は声を潜めて次のような言を洩らした。「誤解されると困るのだが‥…」と何度も繰り返してのことである。

 「原爆投下を聞いたときに、奇妙な感情になりましたね。感銘にも似た気持といっていいでしょう。もしこの爆弾で家族を喪ったとしても、むろん悲しみはありますが、それとは別の感情も持ったと思います。この感銘というのは一言で言うと、毎日机上で原子核の分裂という公式を数字化しながら考えていたのに、これが現実になるというのはこういうことか、ということですよ」

 私はこの発言を聞き、かつて「机上で考え、実験をし、そして確かめようとしていた原子核エネルギー、日常の研究生括のなかでの小さな行為が、ある日突然、現実となって目の前にあらわれたのである。原子核の分裂とは、これほどの威力を持つものであったのか……」と、ある原子物理学者の感想について書いたことがある。この原子物理学者の述懐も科学者が胸中に抱え込む宿痾のようなものではないか、と私には思えてならなかったのだ。

平和利用の希求

 ・・・ただ嵯峨根は、確かに戦争終結にこの原子爆弾は使われたが、これからは平和のために利用しようと自戒する一文を書き残している。 そして次のように断言している。

 (二度と再び、人類の自殺行為のために原子のエネルギーを使ってはならないのだ。広島、長崎の空を蔽ったあの爆煙を、人類の福祉のために新たな歩みを始めるわれわれ科学者ののろしとしよう)

 嵯峨根のこの言は、八月六日以後の仁科の心情に通じているように私には思える。しかしここでは、仁科、嵯峨根とはまったく異なる視点から、人類の教訓を導き出すべきであろう。科学の暴走は政治や軍事の指導者によって決定する、それゆえにその事態は何としても防がなければならないとの教訓である。

 もとよりそれは、二十世紀後半へと継承すべき重要事でもあったのだ。

次号に続きます。