『日本の原爆』を読んで(その2)

 「原発」も「原爆」もそれを取り巻く構図は同じ。それは太平洋戦争時にまでさかのぼります。「原発」はエネルギーだけの問題ではありません。私たちの「核」や「国家」に対する意識、「科学者の倫理」が問われている問題です。
 保阪正康著『日本の原爆』の感想を書いています。

 昨日のブログでは、太平洋戦争時に日本で行われた「原爆開発計画」について書きました。
 →『日本の原爆』を読んで(その1)

 今日は、戦後の「原子力の平和利用」いわゆる「原発立国」への道程について、この本から学んだことや感想を書いて、自らの考えをまとめてみたいと思っています。

 この本を読んだ日曜日、偶然にもNHKでETV特集「核燃料サイクル“迷走”の軌跡」が放映され、「日本の原爆その後」とでもいうべき原子力村の開拓史を知ることになりました。

 実は、この映像と本が私の頭で強く重なり、このようなブログを書くことになりました。

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 まず、「核燃料サイクル“迷走”の軌跡」のことを少しお話しします。

 これは、日本の戦後の原子力政策を担ってきた幹部官僚が、毎月一回開いていた「原子力エネルギー政策に関する勉強会」の録音テープを公開した番組です。

 この番組を見て感じたのは、今となっては「原子力村」と成り下がった彼らが、発足当時は戦後の焼け跡から何とか日本を復興させたい、という意識と責任感をもって取り組んでいたことです。

 それが、資源のないわが国で「高速増殖炉」という、プルトニウムをリサイクルして発電を続けるという(千年も持つらしい)「夢」のプロジェクトを本気で始めたきっかけになったということです。

 しかし、先達のアメリカは撤退し、技術的な困難、安全性の問題は想像をはるかに超え、ほとんど発電しないのに今まで19兆円ものお金を使ってきた。。。という驚くべき道程でした。

 →「19兆円の請求書」

 →河野太郎の指摘 「日本のエネルギー政策」シリーズ1 原子力発電

 録音を聞く限り、官僚たちのあまりにも楽観的でかけ離れたコスト意識に驚きながらも、「見果てぬ夢」をけんめいに追い続けているらしいということは感じました。怖ろしいことでもありますが。

 しかし、このようなとてつもない「夢物語」が継続され、日本の原発システムの中枢理論として今でも堂々と存在し続けるのは、実は太平洋戦争時の軍による「原爆開発計画」と構図が同じであるからだ、と私は知ったのです。

 そしてこのプロジェクトに関わってきた官僚、企業、学者すべてが、居心地の良い村の中で、進めれば進めるほど社会的な常識から乖離していく「夢への挑戦」に、ふりかえることなく日々精進してきたのです。

 「軍」から「国家」にかわった庇護者のもと、「原爆」から「原発」に名を変えたプロジェクトに。

 戦争中もその後も構図は同じなのです。

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 「高速増殖炉」これが原発の根本問題です。これがなければあと70年で枯渇するというウランを使った原発は未来に対して何のメリットもありません。

 今や、再処理待ちの使用済み核燃料は各原発のプールにあふれ、まもなく保管に限界が来るようです。

 十数年以上前にギブアップしたいと語った官僚の声もありました。しかし反対に「一度始まったプロジェクトは止められないんですよね〜」とも語っていました。退職後の余生を生きる今、鉢植えをいじりながらの映像でした。

 「高速増殖炉」は難しいからこんなんでどうでしょう?と若手官僚たちが進めてきたのが「プルサーマル」ですが、原発発足時の古参官僚や格上学者は、この「中途半端」な方式に憤りを隠していませんでした。

 なぜ、欧米もなしえなず撤退した「高速増殖炉」と、その過渡期を担うらしい?現在の原発「軽水炉」のシステムが肥大化し続けられるのか?

 これは、日本政界あるいは自称「国を愛する人々」が持つ「原爆」を持ちたいという強いあこがれのためです。
 
 高速増殖炉で使うプルトニウムを分離し取り出すことは、核兵器製造の一工程です。

 核兵器をいつでも造ることができるようにという隠された方針の下、「原発」という名を借りて「原爆製造のプロジェクト」を太平洋戦争のころからずっと継続しているのです。

 この方針は、今では隠すどころか堂々と主張され、「そうだ!そうだ!」と人々も溜飲を下げているようですが。

 だから「原発」をなくすことはとても難しいわけです。。。

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  故高木仁三郎氏はこのように語ったそうです。

『技術と人間』論文選より

 原子力は体制そのものである。安全論だけで全面的にやめさせる方向にはいかない。「文明の転換みたいなもの」を獲得しない限り「原発体制」はいくら危険性を主張してもなくならないだろう。

 「原発」をなくすためには、私たちにある「原爆への隠れたあこがれ」を見つめなければいけないと思います。

 ゆうべ過去の日記帳を見ていたら、2003年の今頃の日付にこんなことを書いていました。

 「びっくりすることに、ここ最近、核武装すべきという人が堂々とテレビで発言したり本のタイトルにしている」

 被爆国でありながら、核兵器を持ちたいという相反した気持ちを持つ多くの人々。それをあおる政治家や評論家たち。。。

 日本は原爆を敵国から落とされ、人類最大の犯罪の被害者となりました。

 そして3.11、今度は「原発」をわが国自ら爆発させ、またも核の被害者となってしまいました。

 「原発」だけでなく「核」というものに対する根本的な「怖さ」「非人道さ」「制御不能なリスク」を私たちがもう一度自分の頭と心で見直さなければ、もしかしたらもっと大変な「核」の被害をうけるかもしれません。

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 自分の考えばかり書いてしまいました。。。でもこの本はそのようなことをいいたかったに違いないと思っています。

 『日本の原爆』から「あとがき」を引用します。

私たちは次世代への加害者となるのか?

 国際社会に向かって、「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」と発信してはならないのだ。それゆえに、今私たちは歴史的に微妙な時点に立っていることを覚悟しなければならない。繰り返すことになるが、このことを以下のように整理しておきたいのである。

 第一に、このフクシマの原発事故の根本の原因には、かつての日本の原爆製造計画と同じ構図が窺えるということだ。ありていに言ってしまえば、科学者は常に科学それ自体への興味から出発し、しばしばその中に閉じこもってしまうということだ。理化学研究所の仁科芳雄は原子爆弾製造計画を利用して、日本の科学者の予算とその研究の自由を保障した。戦後の原子力発電にしても科学者は自らの関心に終始し、予算と人員、そして自らの研究テーマを確保するだけに努めたのではなかったか。この構図を私たちはよく知ったうえで、そのツケが回ってきたことを見抜く必要がある。

 第二は、原子爆弾製造計画では、軍事指導者が「聖戦完遂」の名のもとに軍事研究を要求し続けた。そこに人間的な視点はなく、とにかく「一発で町を吹き飛ばす爆弾」を求めた。原子力発電も同じだ。軍事指導者に代わって政治家や官僚が、「平和利用」と「生活の向上」の名のもとに「電力というエネルギーの供給を」と訴え続けた。それらの大義は時代の要求する価値観でしかなく、歴史的普遍性に欠けている点に特徴があった。

 第三である。原爆製造と原子力発電ではともに、常に「弱者」がその大義の犠牲の役割を与えられている。福島県石川町の中学生たちが足を血だらけにして岩石を掘っている姿と、原発事故で七次、八次の下請けとして放射能汚染物質の溢れる作業現場に入った作業員たちの姿は重なっている。そこにあるのは、「死」を恐れぬ役を背負わされている人たちの正直な姿ではないか。

 そしてあえて第四として触れておかなければならないのは、今この時代に生きている「われわれ」そのものの責任である。私たちが放射線を浴びたとしても、それはわれわれ自身の責任である。われわれがそうしたシステムを許容したことへの罰であると思えば、納得するしかない。しかしまだ年端もいかない幼児や少年少女、そして次の時代の人たちに放射能障害の危険性を残す謂れはない。

 日本での原爆製造計画が実らなかったために、私たちは人類史の上で、加害者の立場には立たなかった。だが原発事故では、私たちのこの時代そのものが次の世代への加害者になる可能性を抱えてしまった。将来、私たちは彼らにどのように誇られるか、あるいは批判されるか、事故をきちんと収束させ検証する、そうして次世代への加害者とならないことで賞賛されるか、それらの分かれ道に今私たちは立っている。その自覚を持たなければ、万死に値するとの覚悟を持つ必要がある。

 今後、東京電力の原発事故をどのように収束させるか、原子力との関係を再構築し得るのか、日々の時間の意味が問われているのではないだろうか。

参考
 →自然は曲線を創り人間は直線を創る