あのときあんなに頼った店が

 島取り紛争、政界騎馬戦にうまく視線を外されて、新聞にもFBにも「原発」や「3,11」関連の記事はめっきり減りました。恥ずかしながら私も「物忘れ組」の一人でした。ところが昨日、新聞の投書にハッとしました。

 それは、私と同じ宮城県に住む方のこんな投書でした。

朝日新聞 2012.10.3「声」欄より

あのときあんなに頼った店が
主婦 大原 むつ(仙台市青葉区 60)
 近所の青果店に行ったら、奥さんとご主人がしょんぼりしていた。最近お客さんが減り、この日は特にひどくて、朝から数人しか来ないという。ネギ、ナメコ、豆腐、リンゴ、牛乳、食パンなどどれも驚くほど安いのに。「お客さんは1カ所で肉も魚も野菜も買えるスーパーが便利なのでしょうね」と奥さん。

 1年半前のあの震災のとき、ここが店を開けてくれてどんなに助かったことか。私がそう言うと、奥さんは目を赤くして「あのときは午前4時から準備して、主人は何度も車を出して商品を調達したけど」「あれは何だったのかしら。時たま、お世話になりましたと言ってくれる人もいたけど、来てくれない人も多い」と話した。

 震災翌日、長蛇の列をなすお客さんに対して奥さんが「もう少し待てば品物が入ってきますから、1人1個を守って、買い占めないで。分け合えば行き渡ります。辛抱しましょう」と大きな声で繰り返していた姿を私は覚えている。不安やいらだちで一触即発に近い心理状態だったのに、なぜか心がすーっと落ち着き、平常心を取り戻したのは私だけではなかっただろう。

 大規模店の開店や再開は明るく、にぎにぎしく報じられるが、個人商店は取り残され、お客を奪われ、追い込まれていっているように思う。困ったときに一番力になってくれた個人商店を見捨てていいのだろうか。今度は私たちが力を合わせて支える番ではないだろうか。

 「日記でもブログでも書き留めておくことって大事だな〜、自分自身のために」と、あらためて思いました。
 
 そう思ったのは、昨年の3月19日に私が書いた日記というかブログを読み返してみたからです。

 大震災から一週間以上たって、ようやく水道や電気が復旧し始めた頃に書いたものでした。

2011/03/19 (Sat) 18:18:06

町の店やさんありがとう
川嶋信雄

 小さな道にひっそりと咲く花のように、シャッター通りとなった町にも小さなお店がほんの少し残っています。

 今度の震災で早くから開けてくれ、しかもどのようにして仕入れるのか野菜とか果物が買えたのもこんな店でした。

 私の家に灯油やガスを入れてくれている小さな燃料屋さんは、私が留守の間ボイラーの水抜きやプラグを抜いたりしていってくれました。

 今日はいち早く灯油を持ってきてくれました。しかも仕入れが少し高いのでどれぐらい入れますかと良心的に聞いてくれます。

 以前の町はこのように近所が小さい範囲だけど支えあっていたんだなと思い出しました。

 今はストアーも下水道もなんでも大きなものとか一元管理にかたむきがちですが、安心安全のシステムとは小さな単位で自立と自律ができるシステムではないでしょうか。

 地域社会復活の話題を単にノスタルジアのレベルではなく、その多様性の意義を再評価し、人間が暮らすうえでもっとも合理的なシステムとして研究すべきではないでしょうか。

 また、女房は庭の一部を絶対に畑にするという強い決心をしたようです。

 これも重要な「家庭と地域のバックアップシステム」です。

 振り返ってみれば、畑は作らず、買い物はほとんどスーパー。。。

 恥ずかしい気持ちでいっぱいです。。。