不自由こそ幸せのもと

 「一病息災」と言うがごとく、人でも国でも何か「不自由」を持っていることが幸せのもとになると思えるんです。

(不自由を工夫で克服し帰還したハヤブサ)

 (私事で恐縮ですが)私は幼少の頃両足股関節脱臼となり、その後も足が少し不自由でした。

 この疾患があった人は必ずといっていいほど、50代頃から歩行困難になります。

 実は私も4年前には杖をつくようになりました。

 しかし、ちょっとした節制と鍛錬の結果、今は杖を使わなくても歩けるようになりました。(ビッコタンコではありますが)

 人工股関節の手術とかがいやなのと、杖をついていることで憐れみをかけられたりするのがいやだったので必死でした。

・・・・・・・・

 節制とか鍛錬とかいっても大したことをしたわけではないんです。

 プールとかゴムベルト体操とか、酒飲みをやめる(大幅に減らす)とか。

 おかげさまで体重も腹囲も標準。健康診断も数値が年々かえって良くなりました。

 不自由よありがとう!という感じです。

・・・・・・・・

 私の父もそうでして、シベリア抑留で狭心症、帰国して盲腸、結核、中年を過ぎてから胃癌、大腸癌、膀胱癌を二回、メニエル氏症候群にもなりました。

 ところが88歳の今でも、頭はあまりぼけず、足腰もしっかりしています。

 胃袋もないし大腸も大分切ったので、ご飯を良く噛んで食べざるを得ないという不自由さが健康維持に寄与しているようです。

 こうして考えてみると、不自由なところがあったほうがかえって幸せにつながるのでは?と思えるのです。

 幸せの定義は人それぞれでしょうが、健康で長生きというのは多くの人の願いではないでしょうか。

・・・・・・・・

 これを「国」で考えてみるとどうなるでしょう?

 今や、尖閣・竹島問題に火が付けられて、まもなくタカ派の時代に変わるかもしれません。(私はとてもいやで心配ですが)

 日本は「憲法九条」という「不自由」を持っています。

 手足を縛って喧嘩することはできないという人たちが、「縄を解け」と叫んでいます。

 さらには米国と軍事同盟(的な)関係を強化しろと叫んでいます。

 そのような軍事力に頼る考え方にも一理あるでしょう。

 しかし「戦争」が終わった後の悲惨さは、誰だって「なぜあんなことをしたのか。。。」と悔いるに違いない醜悪なものでしょう。

・・・・・・・・

 私はこう思います。

 考え方を「生活」や「経済活動」と同じにしてみれば、不自由ゆえに工夫することだってできるのではないでしょうか。

 そこに新しい考え方や方法が生じ、さらに何か豊かな副産物も生じるのではないでしょうか。

・・・・・・・・

 いったい武力戦争しか国際紛争解決の手段はないのでしょうか?

 軍事力が相対的に弱い国は生存できないのでしょうか?

 使えない凶悪兵器で脅かし合うことに終わりはあるのでしょうか?

 現行憲法に沿って考えることをないがしろにしてよいのでしょうか?

 他と同じが「幸せ」につながるのでしょうか?

 私にはそう思えません。

・・・・・・・・

 「だからどうする?」と言われて、特効薬的な言葉を返せないのも事実です。

 でも、「軍事の道は行き止まりだ、崖から転落するチキンレースだ」ということは誰でも感じていることでしょう。

 実に「原発」と似たところがある厄介な問題ではあります。

・・・・・・・・

 しかし、私たちが忘れてはいけない大事なことは、憲法九条という「不自由」こそが、戦後67年間も日本の平和を守る大きな要素になったという「振り返り」です。

 平和ボケとよく言われますが、私たちの平和を守ってきたものは一体何だったのか、知ろうとしないことこそが「平和ボケ」であると思います。

・・・・・・・・

 手足の自由を奪われたが、口で実に上手な絵を描けるようになった方もいます。

 中途半端に手足が使える状態でなかったからこそ必死で到達した技だと思います。

 資源のない国だからこそ、製造技術や輸出を伸ばす工夫をして工業国となった昭和の日本があります。

 現状の制約の中で何が出来るかを必死で考えること、これこそが今最も必要なことではないでしょうか?

・・・・・・・・

 軍事力に頼れないならいったいどうする?どんな方法がある?必死に考えれば絶対にいろんな手はあるはずです。

 威勢のよい政治家やヤクザの親分に「丸投げ」の発想はなくなり「自分頭」で考えざるを得なくなるはずです。

 たとえ一時的に不利になったとしても、しばらくすれば必ず逆転できる。そんな戦略も発想できるようになるはずです。

 世界に誇れる国をめざすなら、ハンデを克服する試みに挑戦する気概と能力をきっと持っているはずだと思います。

 「不自由」こそ「工夫の種」であり、「幸せのもと」であると私は思います。