『失敗の効用』の「あとがき」にはこうあります。「・・・たとえて言えば『人の行く裏に道あり花の山』の心である」
英文学者外山(とやま)滋比古さんのエッセー集です。
まず、この本の「帯」がいい!
次に「あとがき」がいい!
あとがき
何とも思わなかったことがあとでものを言うということがある。
私は昔、中学のときに柔道をやった。と言っても正課の授業を受けただけで、もちろん強くもなかった。ただ、どうしたわけか、稽古の前後の受身が好きで、ていねいにやった。
中年になってから私はときどき転ぶようになった。眼が悪くて足許がしっかりしていないからであるが、不思議と怪我をしない。あーツ、これはいけない、と一瞬、覚悟するようなときも、立ち上がってみると、どこも何ともないのである。コートもよごれていない。ただついた右手が少しきたなくなっているくらい。そんなことが何度もあって、なぜだろうと考えた。
受身のおかげだった。
とっさに、もっとも合理的?な転び方ができるように体をもっていくのを体が本能的に反射的にするのだと解釈して、納得した。受身は護身の練習であった。
転んではいけないのは常識である。転ぶのをありがたがるのは普通ではないが逆説である。転ぶのに備えて転ぶ練習をするというのは、常識ではないし、逆説でもない、いわば半逆説といってよいだろう。
この本に収められているエッセイの多くはこの半逆説の角度からものごとを眺めたものである。たとえていえば、「人の行く裏に道あり花の山」の心である。
いかにも素直でないように思われるかもしれないが、普通はうっかり見落されがちなところが見えるかもしれない。それをおもしろいと感ずるのは柔軟な知性であると勝手に考える。読者の清鑑を仰ぎたい。
一本背負いや背負い投げ、あるいは巴投げなど派手な技こそ柔道そのもの、と思いがちです。
しかし、武道はもともと護身の術。
考えてみれば「受身」こそ柔道の極意なのかもしれません。
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「受身」を良く身につけないと、投げられれば大変と過剰反応し「やられるまえにやってしまえ!それが防衛というものだ」という意識になるのではないでしょうか?
人の意識はそのまま集団や、国の意識にも反映されていきます。
あまりにも「打たれ弱い」「受身をないがしろにしている」という状況が世の中にあるのではないでしょうか?
そんな過剰防衛の感情や理屈が今やこの国をも席巻し始めようとしています。
過剰防衛は攻撃となんら変わりはありません。
正義と思っている分よけい危険になっていくと思います。まるでネオコンのように。
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包丁で指をちょっと切っても痛がり騒ぐのに、平気で「国のために命をささげよう」なんて、私はとても言えません。。。
もっと打たれ強い柔軟な心や知性、それにつらなる仕組みや方法が、人にも国にも必要じゃないのかな〜。
ヒントはきっと「人の行く裏に道あり花の山」にあることでしょう。
あまり力まず、立派ぶらず、いろんな方法を(たとえカッコ悪いものであっても)柔軟に考えていきたいものです。
なんだかんだ言ったて、「命あっての物種」ですから。
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参考(みすず書房の本)
ハイブリッドマン
愛すべき「哲人」たち
本の中の世界より