ホモ・エックスの正体

 「ホモ・エックス」とは作家池澤夏樹さんの造語です。私たち「ホモ・サピエンス」は、今や別の知的生命体「ホモ・エックス」と共生しているらしいのです。しかし両者の軋轢は日々深刻化しているらしく。。。
 「ホモ・エックス」とはいったい何か?

 朝日新聞 2013.6.4に掲載された「ホモ・エックスとの共生 異なる倫理とのバトル」池澤夏樹さんの記事を引用します。(読みやすいように見出しをつけました)

地球に生息する別の知的生命体

 今、この地球上にはホモ・サピエンスとは別の知的生命体が棲息(せいそく)している。仮にこれをホモ・エックスと名付けてみよう。

 ホモ・エックスは生命の定義を満たしている。外部から隔てられた内部空間を持ち、代謝を行い、時に分裂したり統合されたりし、個体として生まれて個体として死ぬことができる。

 そして進化する。(ここで大事なのは、俗に信じられているように進化はそのまま改善・改良ではないということだ。進化はまずは変化であり、その意味づけは環境との関係に依(よ)る。変化が有利ならばその種はその環境において栄え、不利ならば衰える。時には絶滅する。)

 さて、ホモ・エックスは我々ホモ・サピエンスとは共生関係にある。我々は彼らから少なからぬ利を受け、彼らも我々によって生かされている。しかし、両者の間には軋轢(あつれき)もあって、それがどうやら時と共に深刻化しているらしい。ホモ・サピエンスが滅びることはないが、ホモ・エックスの支配下に入って半ば奴隷のような地位に落とされる可能性は低くない。

ホモ・エックスの驚くべき正体

 ホモ・サピエンスという種の特徴は環境を自分で整えることで、この手法によって我々は地上で大躍進を遂げ、すべての生物の上に君臨している(あいつらはずるいという怨嗟(えんさ)の声が自然界のあちこちから聞こえてくる)。そしてホモ・エックスもまた自分に有利なように環境を変える力を備えている。

 いちばん大きな問題は、彼らと我々では倫理が異なるということだ。

 そろそろ正体を明かそうか。

 ホモ・エックスとは法人、もっと簡単に言えば営利を目的とする株式会社の類いだ。

恐るべきその繁殖力

 我々個人は生まれて育ち、幸福に暮らして、子孫を残して、寿命を全うすることを生きる原理としている。例外は多々あるだろうが基本はそういうことだ。

 法人は株主から資金を集めて設立され、育って何らかの社会的事業をなして利益を生み、それを株主に配当として払うことを目的としている。

 個人は国家に属するが、最近では法人は自在に国境を越えるようになった。製造業で言えば、人件費が安く、土地が安く、公害対策がずさんで、法人税率の低いところへ移動する動きが目立つ。

 国としては逃げられては困るから、雇用のルールを緩めて不況の時に解雇しやすいようにし、精いっぱいインフラを整備し、安い電力を供給して引き留める。どれもコストがかかることで、そのコストを最終的に負担するのは個人である。ホモ・サピエンスとホモ・エックスの共生がだんだん片利的になってきている。

 彼らはそういう方向へ進化している、自分たちで環境を変えて。

ホモ・エックスの倫理なら許される

 倫理の問題について、これまでの自分の論法が間違っていたのではないかと思うのだ。

 例えば水俣病。チッソのやりかたは個人の倫理をもってすれば悪逆非道ということになる。業務上過失致死という判決はあったけれど、実際は未必の故意による殺人ではなかったか。

 あるいは福島における東京電力。よくもまああれほどぬけぬけと嘘(うそ)をつき、白を切り、ごまかし、隠し、払うべき額を値切れるものだ。

 だが、そこのところをホモ・サピエンスの倫理で責めてもなじっても、それは詮(せん)ないことではないか。種が違い、生きる目的が違うのだから。人でないものに人倫を求めるのは無意味だ。

 大企業の経営者の人間性を問うのも見当違い。彼らはホモ・サピエンスの顔とホモ・エックス代表の顔を持っていて、この間には何の連絡もない(高村薫が『レディ・ジョーカー』で書いたとおり)。家で温厚な祖父が会社で被災者を冷酷に突き放す。人格が違うのだ。

人間ではないものを相手にするバトル

 これはあまりに法人性悪説に傾いた論だろうか。

 製造業に恩義はある。ぼくたちは彼らの作った自動車に乗り、彼らの売る衣類を着て安楽に暮らしている。彼らの製品であるアセトアルデヒドや電力があってのこの暮らしだ。それならば共生は相利的だと認めるべきだろう。

 しかし、今の世界では個人の力に比べて法人の力があまりに強くなった。我々が太陽のエネルギーや酸素や水で生きているように、法人は資本で生きている。自然にはリミットがあってそれが個人の生きかたを規制してくれるが、資本はもともとが幻想だから天井がない。早い話が日本銀行が紙幣を刷ればいいだけのことだ。その分だけ法人たちは力を得て強くなり、個人の栄養分を吸い上げる。片利共生はやがて寄生に変わる。

 つまりこれは人間ではないものを相手にするバトルなのだ。東電で働く個人のみなさん、経済産業省で働く個人のみなさん、共闘しましょう。

 さすが作家です!とてもわかりやすいたとえで「私たちが持ってしまった二面性」を明らかにしてくれます。

 変だな〜と誰もが思いつつ、いかなる論戦も政治も社会も必ず「変だな〜」という方向に行ってしまいます。

 よほどの偏屈者でもない限り「ホモ・エックス」の理屈を上手に力強くまくしたてる人を、いつのまにか認め、あこがれ、そして感化されてしまいます。

 私はそのような政治家や経済人や知識人を「百戦論魔」と呼んでいますが。。。

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 私たちに憑依してるエイリアンは、実は私たちが創った「人工生命体」だったというわけです。

 「マトリックス」「ターミネーター」の世界は、まさに「ホモ・エックス」の進化のなれの果て、その予言でしょう。

 まさか現代の私たちがSF映画の登場人物を演じるはめになるとは。。。

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 こんな声も聞こえてきそうです。

 「おまえは経済活動を否定しているのか!」

 いつもの、否定か肯定かの二者択一デジタル思考の問いかけです。

 それはあきらめしか生みません。

 問題なのは、「ホモ・サピエンスとホモ・エックスの共生がだんだん片利的になってきている」ことなのです。

 共生の仕方を多様に工夫することはいくらでもできるはずと私は思うのです。

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 さて、この記事を読んで思い出したことがあります。

 それは「ネアンデルタール」と私たち「ホモ・サピエンス」が共生した時代の(考古学的)話です。

 より優しい人間的な?心を持っていた「ネアンデルタール」が、計略を巡らすことが得意な「ホモ・サピエンス」に追われ絶滅したという話です。

 なにか「ホモ・サピエンス」と「ホモ・エックス」の関係に似ている気がします。

 興味のある方はこちらもどうぞ。

  →もしも言葉が音楽だったなら