う〜〜ん、たしかにあってもいいですね「泣かせるホームページ」。泣かせる本、泣かせる映画、泣かせる写真・・・があるんですから。
昨日、ある方とよもやま話をしていたんですが、ホームページの新しいコンセプトについて雑談となりました。
その方が言うんです。
「泣かせるホームページがあってもいいですね〜。見たいですね〜」
その言葉が妙に頭に残っていたんですが、言葉同士にも引力があるのかどうか?こんな新聞記事に出会いました。
宮崎駿監督「自作で泣いた」「風立ちぬ」完成会見
「アニメーションを作って50年。この作品は、今まで読んだ本や聴いた曲、出会った人など自分の中に積み重なったものがより合わさっている」と話し、完成した自作を見て「泣いた」と明かした。「こんなことは初めて。情けないし恥ずかしい」と照れ笑いした。
宮崎駿監督が自分を泣かせたというこの映画、絶対観るぞと思いました。
「泣かせる」「泣いた」とはなんと強い言葉でしょう!
宮崎監督はもしかしたら最高の誘導メッセージを(あえて)発したのかも?
たぶん、そうだとしたら大成功でしょう。
・・・・・・・・
泣いた、泣かせるにも様々あります。
「感動の涙」なら次のようなものがあるでしょう。
憐憫、優しさ、けなげさ、愛おしさ、悲しさ、犠牲、努力、回復、一途、忍耐、感謝、追憶、勝利、支援・・・
特に(最近)多いのは、「犠牲」かな?
国家のために、愛する家族のために、誇りのために・・・
でも。。。私は「犠牲」をテーマにした「泣いた」「泣かせる」にはとても懐疑的なんです。
それは多くの場合、「悲惨」や「暴力」など「悲嘆の涙」が陰に隠れていることが多いからです。
・・・・・・・・
宮崎駿監督はインタビューでこんなことも語っていました。
戦闘や戦争にまつわるシーンは当初の構想にあったが、「物語を進める上で必要ない」と削ったという。「無理に入れても安っぽいドキュメンタリーになるだけ。悲惨な戦争は、現実の世界で見ることができる」
「泣いた」「泣かせる」は、感動の涙ではあっても、決して「善きこと」とひとくくりにはできないように思います。
「深いもの浅いもの」、「個を強めるもの、群れを強めるもの」、「優しいもの、物騒なもの」
自分が「泣いた」ことの背景やその本質について思索することが大事だな〜と思います。
なぜなら「涙」というのは、もっとも効果的な人心掌握術でもあるからです。
・・・・・・・・
宮崎駿さんは新作映画でどのように私たちを泣かせてくれるのでしょう。
私は、「おきまりの犠牲的精神によるお涙頂戴映画」ではないと固く信じていますが。
さて「泣かせるホームページ」、自分なら何のために、どう作ろうか?