さらば分業

 「なるほどな〜」と、とても共感します。藻谷浩介さんの著書『里山資本主義』です。その中に興味深い着眼がありました。コンビニで働く人たちが新しい仕事スタイルを示しているというのです。

 マイナスに見えることが、実は次世代の種であることはしばしばです。

 たとえば、昭和48年、55年の石油ショック。

 トイレットペーパーの買い占めや、灯油の高騰など、エネルギー資源を外国に依存していた日本は大変な産業苦、生活苦に見舞われました。

 しかしそのとき以来、日本の産業界は「省エネ」に舵を切り、その後現在に至るまで何十年も日本の産業を支えるお家芸になったわけです。

 身近な生活の場面ではこんな例もありました。

 温かいお弁当を初めて売り出したのは「ほっかほっか亭」。とても成功しました。

 ですがその頃、「惣菜業」という業種は成長可能性が最下位に近いものでした。

 あえてそのような誰も目を付けなかった業種に挑戦したら大ヒットになったというわけです。

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 「コンビニで働く」ということは、今、非正規労働、深夜労働、安い時給など、決して皆があこがれるような職場とは言いがたいものです。

 ところが、『里山資本主義』の中で藻谷さんは、逆にその先見性を見いだしているようです。

分業の原理への異議申し立てーマネー資本主義へのアンチテーゼ(3)

 ・・・そのため現実社会では、ヘタに分業を貫徹しようとすると、各人に繁閑の差が出たり、拾い漏れが出たりする。世界で最も効率がいいと思われる、日本のコンビニエンスストアの店員の働きを見るとよい。
 
 お客に対応する傍らで、倉庫から品物を出して来たり、商品棚を整理したり、トイレを掃除したり、ゴミ箱の中身を片付けたり、少数のスタッフが一人多役をこなして効率を上げている。

 さらには彼らの多くが、学生だったり主婦だったり劇団員だったり、店の外にもやることを持っている人たちだ。

 実は里山資本主義的な一人多役の世界は、マネー資本主義の究極の産物ともいえるコンビニエンスストアの中にも実現していたのだ。

 私は二つの点で共感しました。

 ひとつは、究極の経営効率化というのは「分業」ではなく、従業員一人一人の「多能化」「多機能化」にあるという点です。

 となれば、あらゆる仕事の場で一人一人の「多様な能力」を育成するということこそ経営の基本になるということです。

 これは「分業」が人間のロボット化を進めるのとは逆で、人間中心的な方向性であり、実に喜ばしいことです。

 トヨタではその独自の「ものつくり哲学」において、「多機能工」が基本になっています。

 実は、高度な管理を実現している会社では、とっくに基本となっていることでもあります。

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 二つ目は、「さらには彼らの多くが、学生だったり主婦だったり劇団員だったり、店の外にもやることを持っている人たちだ。」という指摘です。

 これからの働き方には、一社に囚われない「自立したミックス職業人」という仕事スタイルが必要ではないでしょうか。

 それは、「就職」ではなく「就社」に変質してしまった現代、さらにその「就社」がしにくくなってきている現代、私たちが逆に「自分」を取り戻せるきっかけにもなり得るように思えるのです。

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 昔の社会、特に農家は何でも屋さんでした。

 私の父方の祖母を思い出しても、それは「スーパーマン(ウーマン)」と思えるほどです。

 若くして夫を亡くした祖母は、五町歩の田んぼの管理、畑、果樹、養蚕、牛、馬、羊の飼育、機織り、そして六人の育児。。。

 これらを(戦前)小作人の管理をしながら、こなしてきたわけです。

 晩年、祖母が飼っていた羊の毛を自ら編んで父に持ってきた「ももひき」や「ジャケツ」を今でも思い出します。

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 『里山資本主義』では、このような昔の「自立型多機能仕事人」を、「マネー資本主義」の「バックアップシステム」としてもっともっと考えるべきと書いています。

 多様な仕事をする、できるという仕事スタイルは、実は一人一人が自分自身の(精神的、肉体的)能力を高め、実感していけるという、これからの望ましき方向性だと私には思えます。

 それを行うのに十分な自然資源、地域社会が存在すること、それを実践している人たちがたくさんいること、都市部でもその方向性は持てるということ。

 これらをこの本ではドキュメンタリー的に紹介しています。