耳を傾けるという価値

 私も反省なんですが、ネットではついつい自己主張が強くなり過ぎます。それは「良き聞き手」が目の前にいないからでは?と思えてきました。
 現代における「語り合い」は、声ではなく文字の交換になりました。

 若者も、オヤジも、(一部の)お年寄りも、男女問わずネットをあたかも仮想現実のようにして話し合うようになりました。

 そこではお互い「顔」を見て話すことはできません。

 ネット社会にさまよい込んでしまった私たちは、知らず識らずのうちにとても大事なものを失いつつあるようです。

 ネットで失ったもの、それは「良き聞き手」です。

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 私が敬愛し、とても大きな影響を受けたミヒャエル・エンデはその著書『モモ』の中で、「耳を傾けること」の大事さを教えてくれました。

 『いま、きみを励ますことば』にも、モモについて書かれたページがありました。


中村邦生著『いま、きみを励ますことば』(岩波ジュニア新書)
「6章 自分を信じること」より

ただ話を聞くという、すばらしい才能

 「時間どろぼう」の計画の最大の障害が、円形劇場の廃墟にひとりで住む年齢も素性もわからないモモで、その重要な秘密が引用に暗示されているような、「あいての話を聞く」というモモの「ほかにはれいのないすばらしい才能」にあるのだ。

 ・・・モモにできたのは、ただじっと相手の話に耳を傾けることなのである。

 これを簡単なことだと思うのは、私たちの大きな誤解のひとつだ。

 「ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです」とエンデは述べる。

 モモは大きな黒い目で相手を見つめ、注意深く話を聞く。

 意見を述べたり、質問をしたりしなくても、相手が「どこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考え」が浮かぶし、生きる気力をなくした人がモモに話をすると、自分だって「この世のなかでたいせつな者なんだ」と気づく。

 追い立て、急き立てられながらも「効率」の追求が絶対的な価値としてある社会にあって、相手のことばを「ただじっと聞く」という受動の能力は、私たちにもっとも欠けているものかもしれない。

 パソコンのない時代、どんな仕事風景だったのだろう?と思い出してみます。

 私が20代の頃の職場には、今のように電子メールもSNSも、携帯電話だってありませんでした。

 パソコンを見ないでどんな仕事をしていたのか?と自分でも不思議に思えてしまいます。

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 よ〜く思い出してみると、画面との「にらめっこ」や「タイプ打ち」がないかわり、職場の皆と話す機会がたくさんありました。

 生の対話や会話ですから、話す、聞くの二つの役割を互いが阿吽の呼吸で交替していました。

 あるときはたしなめられたり、あるときは励まされたり。あるときは教えられたりしました。お互いに。

 うまくないことを話したり、言い過ぎたりすれば相手の表情は即座に変わり、自分に跳ね返ってきました。

 そんな「鏡」を互いに見ながらアクセルとブレーキを上手に踏み分け、対話や会話というものは進んでいきました。

 そのやりとりは、どれほど私たちに「社会人」や「人」としてのバランス感覚を育んでくれたことでしょう。

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 ネットの社会では聞き手はいません。いたとしても見えません。

 「コメント」返したり、「いいね」したりとかあるじゃない、と思う人もいるでしょう。

 しかしそれは同傾向の人が自己確認のために行っていることであり、さらに表情や雰囲気などの微妙なニュアンスは決して伝えられないのです。

 極端に言えば、ネット社会は情報の「発信」だけにしか価値がない社会です。

 それは聞き手という鏡がない社会です。

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 十数年前から、日々のニュースになんとも幼い自己顕示欲丸出しの凶悪事件が増えてきたように思います。

 年を経るごとにその件数は増えていき、正直「またか。。。」という気持ちになっている自分を発見します。

 この背景にはネット社会の進展と、ネット社会特有のある構造が大きく影響しているように思えます。

 「聞き手」がいない、実は「独白」の社会、という構造です。

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 バーチャル社会へはまるのはホドホドにしないといけないな〜、と感じるこの頃です。

 リアル社会の豊かさをまず私たちの世代が思い出し、バランス感覚を取り戻さなければ、と思います。

 このまま流れに身を任せていったら、「全国民オール・ジコチュウ」になってしまいそうです。

 自分自身も、わが子も、わが孫も、わが仲間も、そして政治も社会も。

 私が一番怖いのは、自分と国家を同一視した「コッカ・ジコチュウ」です。

(参考)
情熱のうらおもて
エンデと「シカンダ」
「タイム」と「モモ」
モモが出番を待っている