呪文のような挨拶

 今やどんな商品も過剰包装です。中身よりビニールとか紙とかシールのほうがいっぱい!店の挨拶まで過剰気味で逆に気分がめいります。
 天野祐吉さんがまたも霊界から私の心に降りてきましたよ。


(→引用元はこちら

ノボ村長の世相天気図

 しばらく前から日本のお店が変になってきた、と感じてるのは僕だけだろうか?

 有名どころのお店はどこでも、店員さんたちがのべつまくなしこんな「呪文」を浴びせかける。

 「いらっひゃいまへ、こんにちは!」

 それも勢いよく。(決して「元気」ということじゃないよ)

 いったい、どこのコンサルタントがこんな過剰包装みたいな変な挨拶を広めたんだろう。

 居酒屋、ビデオ屋、コンビニ、量販店、服屋、酒屋・・・ 全国的に展開しているお店はみな、この「呪文」に浸食されたようだ。

 いったい社長さんたちは、この呪文を客を呼ぶ秘法とでも信じているんだろうか?

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 はじめに聞いてびっくりしたのはもう7,8年も前になるかな〜。

 「ツタヤ」というビデオ屋さん(ビデオが廃れた今はなんていうのかな?)で恐怖に襲われた!

 通路を歩いている店員が、私に出会うたび、大きな声でそれもビデオの棚を見ながら叫ぶんだもの。

 「いらっひゃいまへ、こんにちは!」「いらっひゃいまへ、こんにちは!」「いらっひゃいまへ、こんにちは!」・・・

 しかも多くの店員が歩いているので、のべつまくなしに。

 あまりに気分が悪くなったので、レジで抗議したら「上からの指示なので。。。」という返事。

 それ以来、怖くてこの店へは行かなくなっちゃった。(今はどうなんだろう?少しは変わったのかな〜)

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 次が同じ頃行った「ワタミ」

 まるで喧嘩売っているのか、と思うような仏頂面して絶叫していたよ。

 同じような顔(化粧)をしたバイトの姉ちゃんたちが。

 「いらっひゃいまへ、こんばんわ!」

 それ以来ここも行くことはなくなった。

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 ところが、日増しに信者が増えていってるようで、ついにこのコンビニもか〜、ついに地元のこの酒ディスカウント店もか〜と落胆続き。

 今では修行と思い、じっと我慢して仏頂面してレジを終え、早々に退散する。

 どうして、こんなになったのかな〜、とずっと小さな胸を痛めているんだけど。。。

 そうしたら、昨日ラジオで思いがけぬ話を聞いたんだ。

 それはディズニーランドのお話しで、いつものように信者お決まりのディズニー超一級サービス自慢話だった。

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 その話に曰く。

 「デイズニーランドでは『いらっしゃいませ』は使わない。それは一方的だから。そのかわり『こんにちは』と言う。そうすると相手も『こんにちは』と返し、互いが通じ合うから」

 僕はすぐこう勘ぐったよ。

 もしかして、これを大手広告会社とか大手コンサルタント会社なんかが応用し、一斉に水平展開したのじゃないだろうか?

 さらに、洋物に弱い彼らは単純にこう考えたのか、とも。

 「今までの『いらっしゃいませ』に、双方向の(ディズニーの)『こんにちは』を足せばよりイイじゃん!」

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 おかしいと僕が思うのにはちゃんと理由がある。

 「いらっしゃいませ」は丁寧語。

 「こんにちは」は普通の(対等の)話し言葉。

 これを混ぜて使うということは、丁寧に話してすぐにタメ口をきくということと同じじゃないか。

 まるで丁寧に伏し目で会釈したとたんに顔を上げ、ニヤッとした顔でなれなれしくこちらを見返すようないやらしさだと思う。

 さらに「こんにちは」は、その言葉の性質上、相手(客)も「こんにちは」を返すことを暗に強要している。

 店に入ったとたん、店員すべてが次々に連呼するとなると、どうやって挨拶を返すんだい?

 これじゃもう挨拶ではなく暴力とすら感じてしまう。

 ディズニーランドで「こんにちは」だけ使うのと、似ているようでまったく異なる乱れた発想だと僕は思うんだけどね〜。

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 挨拶はそもそも言葉ではなくて、真心であるはずと思う。

 真心を表すために、「表情」「姿勢」そしてそれらを補完する「言葉(挨拶)」があるのではないだろうか。

 真心を表すためには、決して押しつける強い表現ではなく、静かで謙虚で控えめな表現が望ましいはず。

 さらに真心を示すのに言葉は必須じゃないよね。

 たとえば会釈に言葉は必要だろうか?

 静かに店内を見たいという客にびっくりさせるような言葉を浴びせかけるという野蛮。

 いったい何を勘違いしたのだろうか、コンサル屋もケイエイ者も。。。

 声が高ければ元気、言葉が多ければ丁寧、よその店と同じが大事。。。

 これらが全く本質から外れ、逆効果であることを知らないように思えるよ。

 当然、従業員には何の責任もない。

 問われるべきはケイエイ者の見識、教養だよね。

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 日本社会が今持つ病みたいなものが感じられるな〜。

 その病を僕は「顔なし病」と名付けようと思っている。

 皆さんは、テレビで歌う子らを見て見分けが付きますか?

 日本全国の町にいって、町の看板がもしなかったら見分けが付きますか?

 ホームページやらもみんな似たような。。

 あらゆるものが、みな同じような顔になってしまった。

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 同じようにするのがコンサル屋さんの仕事なのかも?

 ではなくて、私たち自身が人と同じ、同業者と同じ、他の国と同じ、そんなふうになりたいという潜在意識が強くなっているんじゃないのかな。

 まるで『千と千尋の神隠し』に出た妖怪「顔なし」と同じようだ。

 (あこがれの)人と同じになりたいがなれない、その満たせぬ欲求が自己嫌悪を生み、その反動として暴力的な自己顕示欲に変化していく。

 また、同一志向をベースとしながら他とほんの少しだけ差をつけること、それを個性と勘違いしているような気もする。

 それは(創造的な)個性ではなくて(相対的な)差異というべきものでしょう。

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 最近ニュースで報道される事件も、社会の雰囲気もどこか似てきたな〜。

 なにかの反動のような自己顕示欲の噴出みたいなところが。。。

 「一人一人、一つ一つの個性」って何かを良〜く考えていきたいもんです。

 →痒い社会、痛い社会
 →女のはなし、男の話
 →天野祐吉「霊界天気図」