思いがけぬ「バベルの塔」

 アリンコが巨大な蟻塚をつくるように、人間が巨大なバベルの塔をつくるのは本能なのかもしれません。
 旧約聖書で有名なバベルの塔。

 天まで届けという人間の傲慢さに怒った神が塔を破壊しました。

 その時から言語はバラバラにされ、互いに通じ合わない世界になったという神話です。

 「巨大な建造物」の破壊と「共通言語」の破壊、その二つがこの神話の中身です。

 中沢新一さんは著書『野性の科学』のなかで独自の「バベルの塔」論を語っています。

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 彼によれば、バベルの塔はその後も引き継がれ、現代にも存在するらしい。

 それは「巨大なアンテナタワー」

 つまり、エッフェル塔やら、東京タワーやら、東京スカイツリーやらであると語っています。

 バベルの塔の神話とは「都市」と「コミュニケーション」の物語であるというのです。

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 さらに「共通言語」とは現代においては「貨幣」であると語っています。

新たな塔、新たな言語

 電磁波の海の中に立つ現代の塔は、バベルの塔の挫折のあと、あらためて単一な世界言語と透明なコミュニケーションを求めている。

 現代の単一な世界言語の位置についたのは、市の「言語」であった貨幣であり、世界を均質な情報につくりかえることによって、コンピューターをつうじた雑音による阻害が入り込んでこない伝達の手段が、今日の透明なコミュニケーションを実現しようとしている。

 「貨幣」によるコミュニケーションとは、コンピュータによるデジタル情報のやりとりです。

 コミュニケーションの場所とは「金融市場」です。

デジタル・コミュニケーション

 現代の塔が高みをめざすのは、「天」に触れるためではない。

 背を伸ばすことによって、コミュニケーションにとっての障害物を避け、できるだけデジタル波形の壊れないかたちで情報を伝送するためだ。

 このような情報化と情報伝達の手段が発達することによって、金融化した資本のコミュニケーションもますます発達するようになった。

 バベルの塔の建造は、挫折したままだったのではなかった。

 それはかたちを変え手段を変えて、自分の意志を貫徹しようとしている。

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 さて人類は大昔も今も、なにゆえ「都市化」を志向するのでしょうか。

都市への欲望

 メソポタミアは人類の最初期の都市が建設された場所である。

 城壁によって外敵から守られ、ニムロデのような王によって、都市の内部には安全と秩序が保証されていた。

 そこには市がもうけられて豊かな富が集積され、その中に住んでいるかぎり、天上の神々にも比較できるような暮らしを、都市は人々に与えることができた。

 バベルの塔の神話には、このような事情が反映されている。

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 バベルの塔への神の怒りは旧約聖書の後付けであり、

 もともとはメソポタミアに実在した都市の盛衰の物語であったのではないか、と著者は語っています。

 都市化への欲求、建設、そして挫折の物語ではなかったのかと。

挫折の物語

 「しかし、バベルの塔がしめしているように、初期の都市が抱いた透明なコミュニケーションへの欲望は、いずれの都市でも挫折を経験することになった。

 都市の内部には貧富の差が発生し、スラムがつくられ、成功者たちへの恨みの感情が蓄積していくと、都市の内部の意思疎通を阻害する、さまざまな困難が出現するようになったからである。

 神が建造を妨害したからではなく、都市の内的論理そのものによって、自分の内側から塔の建造にストップがかけられていった、というのが実情なのではあるまいか。

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 現代の「バベルの塔」もバビロンのそれと同じ道をたどるのでしょうか。

 私たちは今、いったい何を求めているのでしょうか。

多様性への回帰

 このような時代に、しかし、わたしたちはこのような透明なコミュニケーションばかりを求めてはいない。

 わたしたちの求めているのは、情報と貨幣の両面でおこなわれているコミュニケーションの透明さではなく、人間の心と心の間に複雑で柔らかな多次元的了解が、細い通路を通じて伝わっていくような状態だ。

 単一の世界言語ではなく、地域の言葉で、生きている人間や自然と語り合うような状況が実現されることだ。

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 政治、経済、文化あらゆることの根本に、私たちが無意識に志向し、日々建造している「バベルの塔」の感性が内在しているようです。

 「都市」か「田舎」かというのは、単なる生活スタイルの選択ではないようです。

 それは、私たちの「思想の分岐点」のように思えてきました。