意地悪爺さん哲学者ショーペンハウエルの「毒舌幸福論」その2です。「他人に対する態度」について超訳してみました。
厭世?哲学者ショーペンハウエル爺さんの「幸福論(幸福について)」は「べらんめえ口調」で書くとしっくりきます。
(ショーペンハウエル:1788-1860、ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』)
人は変わりようがないのさ
世渡りには「注意深さ」と「寛容さ」が絶対必要だぜ。注意深く生きれば損することなんてあんまりない。
寛容な気持ちを持って生きれば、へたな争いもしなくても済むはずだ。
俺たちはだれでも、いろんな人間と一緒に暮らしていかねばならない宿命さ。
だから、どんな性質の奴でも、どんなにろくでもない奴でも絶対的に排除してしまうなんて許されないんだ。
なにせ個性ってやつは、「自然」によって勝手に定められたもんだからな〜。
「個性」は神様が不可思議な原理でつくった「絶対変わらないもの」とみなすべきだぜ。
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とはいっても、ずいぶんヒドイ個性の奴らもいっぱいいる。
そいつらと出あったら「こうした変わり者もいるんだな〜」と思えばいいだけさ。
そう思わなかったらどうなる?
相手と殺し合いするはめになるぜ。
だってそうだろう。
やつらが何を正しいと信じているかとか、物事をどう見るかとか、気質とか、それに人相もだな、これらは持って生まれたもんで誰にも変えることなんかできやしない。
ところが張り切ってそいつのことを否定してみろ。
相手の奴はこっちを親の仇みたいにして、すさまじい逆噴射をはじめるぜ。
だって「今そのまんま」をやめろ、そうしなければおぬしの生存権など認めないって言ってるようなもんじゃね〜か。
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だから多くの人たちと一緒に生きていくためには、誰であっても、どんなワルやらバカだろうが、そいつらをそのまんま認めていかねばならないってことさ。
そんでもって、そいつらの個性ってやつを、そいつらに合わせてうま〜く利用すればいいんだ。
あ、ひとつ注意だ。
利用する際に、やつらが変わることを期待したり、えらそうな道徳ふっかけて変えようなんて決して思っちゃいけないぜ。
「われも生き、人も生かす」という言葉の真の意味はここにあるんだ。
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とはいえ、言うは易く行うは難しだよな〜。よくわかるぜ。
この通り実行できてるやつは偉いし、幸福だと思うよ。
あ、そうそう、この考え方を訓練する良い方法があるんだ。
他人に対して忍耐心を養おうとするやつはこうすりゃいい。
日常生活で、自分に頑強に抵抗する無生物を相手にして忍耐力を養うのさ。
たとえば、足がびっこの椅子とか、切れ味悪い包丁とか、最新OSのくそパソコンだとか。。。
考えてみたら無限にあるだろう。
そんなガマン練習をしてから次に人間に移るわけだ。
他人の嫌なところも、無生物といっしょで変わらぬ本性とみなすのがいいわけさ。
そんな習慣を身につけろって俺は言いたいわけだ。
つまり、「他人の行為に腹を立てるのは、行く手に転がってきた石に腹を立てるのと同じ」ってこと。
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<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
睡眠は死への利息払い
本を読むなという「読書論」
超訳「毒舌幸福論」
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