蛙が少なくなった話

 私たちは都市の対極に田舎があるというイメージを持っています。でもどうなんでしょう?
 仕事の仕方に関しては、今や田舎流なんてものは通用しないし、ほとんど存在すらしなくなったんではないでしょうか。

 ただ、都市型の仕事や会社が田舎にあるだけ、みたいな感じに思います。

 それは「自然」や「地域」に対する向き合い方が、「ぞんざい」になってしまったということかもしれません。

 田舎ゆえ、地方ゆえの仕事の仕方、仕事の魅力について考え直さないと、全国津々浦々同じ顔になっちゃいそうです。


内山節(たかし)著『戦争という仕事』より

 私が暮らす群馬県上野村では、十年はど前に山の奥でダム工事がはじまるとカブトムシやクワガタが激減した。

 以前なら、夏の夜には一匹、二匹と家の中に飛びこんできたのに、いまではすっかり姿をみなくなった。

 どうやら理由は夜間の工事にあったらしい。

 工期を短縮するために、建設現場では夜も強い照明がつけられていた。

 その光にカブトムシなどが集まり、明け方になるとこの虫たちを捕りにカラスが集まるようになった。

 建設会社の人々は、工期内に建設を終えることには熱心でも、その行為が虫たちの世界に大きな影響を与えていることに思いはおよばない。

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 もうひとつ、山に暮らすガマガエルがかなり減ってきている。

 ガマガエルは普段は山で暮らしていて、春になると産卵のときだけ川に下りていく。

 問題は彼らが山に帰るときである。

 川からの帰り道の途中で、道を横切らなければならないことは多い。

 ところがその道は、谷側が崩れないようにコンクリートが打ってあって、山側もコンクリートの壁になっていることがよくある。

 このコンクリートが行く手をはばむ。

 ガマガエルの跳躍力では、垂直な壁は二十センチもあれば絶望的な高さなのである。

 彼らは壁の下で前へ進めなくなり、カラスやヘビ、イノシシなどにつかまっていく。

 こうして、自然な条件下で食べられるガマガエルの何十倍もの量が、彼らの天敵たちに捕らえられていく。

 ここでも、道の改修工事をする人たちが、ガマガエルに絶望を与えていることに、思いを寄せることはない。

 路肩のコンクリートの打ち方を少し変えるだけでこの問題は解決するのに、である。

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 このような現実をみていると、私は以前に会った和歌山県の土木会社の経営者の話を思いだす。

 彼はまだ四十代になったばかりの、二代目の社長であった。

 村の土木業者で、百人余りの社員をかかえている。

 「元々はウチの会社は」と彼は話しはじめた。

 「冬の農閑期に仕事がなくなった村の農民を集めて、道づくりなどをする会社として出発した」。

 それは、村の土木会社にはよくある形態だったのだという。

 社員は一年中雇われているわけではなく、春から秋までは村の農民として暮らしていた。

 彼はそういう時代に造った林道に私を案内して、「みごとでしょう」と言った。

 山の形状に逆らわずに造られていて、崩れやすいところは石組みで補強されていた。

 自然が損なわれないように設計され造られているから、大雨が降っても崩れることははとんどない。

 それが農民の目や技を使って造った道なのだという。

 自然とともに働き暮らしている人々の能力を生かして造っていたときは、こんなみごとな道ができた。

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 ところが農業の機械化がすすみ、しかも農業では生活できなくなってくると、社員は通年雇用を望むようになった。

 発注される仕事の工期も短縮され、冬場の仕事では受注できなくなった。

 「その結果、ウチも普通の土木会社になってしまった」と彼は言った。

 設計と工事も分離され、会社は社員に一年間給料の払える仕事量の確保に懸命になり、社員は安定した収入源であることを会社に求める。

 農民の目や技は生かせなくなって、村の土木会社らしい仕事はできなくなった。

 その地域の自然を知りつくした人々ならではの仕事ができなくなったのである。

 村に本社があるというだけで、都市の土木会社と変わらないものになった。

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 「どうしたらよいのか」と彼は言った。

 「これでは村の土木会社である価値がない。

 村の土木会社が、村の自然も、村における農の営みもこわすような仕事をしている現実を、どう直したらよいのか」

 彼の話をききながら、私は、本当は自然を改造する仕事は、その地域で自然とともに暮らしている人々だけに与えられるべきなのかもしれないと思った。

 もちろん、その設計や工期の設定をもふくめて、である。

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 今日の私たちは、自然をみることができない仕事をしている。

 それが人間の労働能力の大事な部分を失わせた。

 私たちの暮らす時空が人間だけによってつくられているのではなく、自然と人間の相互性によってかたちづくられている以上、自然がわからないことは労働能力の低下である。

 問題は、市場経済はそのことを視野に収めないシステムだ、ということのほうにある。

 私の会社も地方にあるんですが、もういちど「地方の会社」の存在意義を考え直してみる必要があるなと思いました。

 「地方の会社」とは、出張所のようにただ「地方にある」ことではないでしょう。

 都市部にも通づる一般性を保ちながら「地方の会社ならではの独自性」を持つことが大事なのだと思えます。

 独自性とは「地域に最も適した独自の形態、方法」のことを言うのだと私は思います。

 昔は意識せずに存在していたその価値観を、何らかの形で復活させていきたいものです。

 ちょっと飛躍しますが、「ガラパー」「ガラケー」なんていう言葉も、「ローカルの価値」という観点から考えれば、実は揶揄されるべきではなく、大事な価値を秘めているように思えます。