『ゲド戦記』を読んでいます。全6巻のうち2巻を読み終わりました。すばらしい物語の影響を受けて私の想像もふくらみます。
アメリカの女性小説家アーシュラ・K・ル=グウィンの名作『ゲド戦記』を読んでいると、子供の頃に還る気がします。
とても物語に引き込まれ、ワクワクとした気持ちで別世界に没入してしまいます。
なぜかな〜と考えてみました。
内容の質が高いことは言うまでもないんですが、そのほかにも特徴があるようです。
その一つはセンテンスが短いこと。
その結果テンポが良くなります。
もう一つは風景や器物の描写が具体的なこと。
たとえば建物なら、その大きさから壁の材質、屋根の色まで無理なくイメージできるんです。
描写される木々の名前や鷹類の名前などもその種類の多さに野性の豊かさも感じさせられます。
ル=グウィンの父上が文化人類学者であったことも大いに影響しているような気がしました。
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さて主人公の「ゲド」は「魔法使い」です。
それもとびっきりの。
「ゲド戦記」の世界における「魔法使い」とは、私たちの世界で言えば「万能の天才」でしょうか。
持って生まれた資質と、それを開花させる高度な学問の修練を経て、人々に幸せをもたらすことに邁進する超エリートです。
第一巻「影との戦い」では、ゲドの幼少期から青年期までが描かれています。
偉大な魔法使いになるために直面させられるゲドの恐ろしき敵との戦いがこの巻のストーリーなのです。
しかし、恐ろしき敵「影」とは実は。。。
実に「開祖」の「法難」とでもいえそうな「人生に対する苦悩」の物語でもありました。
私はなにか「青春の葛藤」のようなものを感じさせられました。
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ゲドたち魔法使いは様々な術を使って自然に逆らうことができます。
急に霧や風を意のままに生じさせたり、真っ暗な場所では杖の先に灯りをともし続けることもできますし、病を治すことも出来ます。
海を小舟で渡るときも魔法でマストを立て、自然の風とは逆方向の風を帆にはらませて進むこともできます。
私は読みながら「魔法使い」とは現代の「科学者」じゃないのかと思えてきました。
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自然を克服したい?という強い(大それた)意志をもって、大昔から才能ある人々が科学、それに伴う技術を発展させてきました。
魔法使いゲドが行う術も実にその成果と似ています。
風に逆らって走ることは「エンジン」でしょうし、病を治すことは「医学」でしょうし、灯りをともすことは「電池」に近いでしょう。
もちろんゲドたち魔法使いのレベルに現代科学はまだまだ達していないようではありますが。
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こんなことを思ったのは、先日ラジオで教育学の先生がこんな話をしているのを聞いたからです。
子供とやる気のお話しでしたが、途中から聞いたせいもあり、一部だけ頭に残りました。
子供と大人の「やる気」の違いについてでした。
「子供はやる気が出てくる、大人はやる気を出す」
言い換えるとこうなります。
子供のやる気は、好き嫌いや関心の強弱により「感情」から生じてくる。
ところが大人になると、こうすべきという「意志」の力で自らやる気を生み出す。
なにかゲド戦記の登場人物と似ている気がしたのです。
つまり魔法使いは「大人」であるから、意志の力で様々な力を生じさせることができるのだと。
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魔法使いと科学とが似ていると書きましたが、大きな違いもあります。
魔法使いはその力がその人と一体です。
しかも大変な修行なしでは会得できません。
そして長い修練を終えた後、手と頭と心が歩調をそろえていなければ魔法使いの資格は与えられないのです。
ところが科学から生まれた原理や技術というのは、一度生み出されるとだれもが使うことができるようになります。
魔法使いの術は魔法使いの人格とともにありますが、科学はそうではないのです。
科学という現代の魔法は、何も考えない人でも、よこしまな考えを持つ人でも自由に使えるのです。
その結果やがて、自らの魔法に自らが使われたり自らを損ねていったりすることにもつながります。
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まだ「ゲド戦記」の半分も読んでいない段階であれこれ感想を述べては的外れになるかもしれません。
しかし登山の途中で見下ろした下界の景色や山自体の雰囲気を綴っていくのは、きっと読書を愉しく有意義にしてくれるに違いないと思っているんです。
世評が高く、私が共感し尊敬する多くの方々が影響を受けたとされるすばらしい物語ゆえ、途中経過をこれからも書いていこうと思っています。