倉本聰さんの敗北談

 「北の国から」の脚本家として有名な倉本聰さんは今年79歳。北海道富良野に40年近く暮らしています。しかし移り住んだわけは悲愴でした。

 昨晩NHKで倉本聰さん生出演のインタビュー番組がありました。

 偶然途中から見ることになりましたが、彼の北海道移住の真相を知り画面から目が離せませんでした。

 倉本さんが39歳の時、NHK大河ドラマ「勝海舟」の脚本家に抜擢されました。

 ところが演出家と合わず、また雑誌のインタビューでNHKの内部告発でもしたかのような見出しで記事を掲載されました。

 このことで(NHKの)20〜30人につるし上げを食わされ、あまりの悔しさ、悲しさにそのまま羽田空港から札幌へ逃げてしまったというのです。

 家族を残し、金もほとんどないような状態で札幌の友人の家に転がり込んだそうです。

 それから東京へは戻る気がしなくなり北海道へ居続けることになったわけですが、実は数年間大変な精神状態、経済状態だったようです。

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 ある日小樽のコンサート会場で、嵐のため到着が大幅に遅れている北島三郎さんを待つ船乗りたちをはじめとする熱狂的なファンの姿に感動しました。

 他の有名な芸能人がその会場に複数名いたのに、観客のほとんどはサブちゃんだけが命という感じでした。

 いったいどうして?

 そこで北島さんの付き人を2年間させてもらうことになりました。

 一緒に巡業を続ける中で大事なことを発見しました。

 「サブちゃんの目線は常にファンと同じ目線、つまり下を向き、下から見る目線だ。俺は上を向き、上から見ていた。。。」

 さらに船乗りたちはこう言ったそうです。

 北の荒海に耐えられる歌は「北島三郎」と「都はるみ」だけだと。

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 やがて富良野へ住むことになったわけですが、そこはロマンチックとは真逆の世界。

 果てしなき闇と静けさ。。。

 一冬めは孤独と失意で「毎日どうやって死のうか」ということばかりを考えていたそうです。

 そのうちに自分の耳が動くようになってきたといいます。

 それは、ウサギやリスなど野生動物がかすかな音から危険を感知して耳を動かすのと同じで、野性が戻ったと感じたそうです。

 そして二冬め、孤独や失意は少し薄れてきました。

 「神様は私に試練を与え、私はここに住むことを許されたに違いない

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 NHKにはよほどトラウマがあるらしく、こんな言葉にNHKのアナウンサー二人もかなりの苦笑でした。

 「NHKのこの建物から、後先考えず私は逃げたのです。涙を隠すためにサングラスをかけて。だからこの部屋にいるのは実はいたたまれないんです」

 アナウンサーが問います。

 「でもどうして北海道だったんですか?」

 倉本さんが言うには、
 
 「敗北っていうでしょう。決して敗南とは言いませんよね。負けるとだれでも北に向かうのです」

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 倉本聰さんは悠々自適をめざして富良野へ移り住んだと私は思っていました。

 それがまったく違うことだったと知り、驚きと共に倉本聰さんに今まで以上の親近感と関心を覚えました。

 彼は今でも毎月福島にきて原発被害者に寄り添っています。

 「もう都会では原発事故を忘れかけている。

 地元新聞二紙の日々の一面を見るがいい、福島の人たちは今でも3.11の日のままなのだ。

 福島の電気に支えられて生きてきた私たちがそうでは恥ずかしい。。。」
 彼の原発への思いは「サブちゃん」から学んだ「下の目線」ゆえだということを私はあらためて感じたのです。

参考
  →倉本聰さんの「国会質問」
  →「都市を滅ぼせ」という本
  →倉本聰『ヒトに問う』より